2回にわたって書いてきた旧制台北高等学校シリーズ、今までは「過去」を書いてきた。が、今回は現在の台高、つまり國立臺灣師範大學がどうなっているのかを写真で紹介していくことにしよう。
台北高等学校の現在
旧制台北高校の部分は、臺灣師範大学のメインキャンパスとなっている。図書館などがある別のキャンパスも、和平東路を隔てた道の向こう側にあるのだが、戦後にできたキャンパスであり台高とは関係がないので省略する。
台高時代の建物が残っているのは、上の地図①~④の建物。まずは、①を見ていこう。
台高本館ー現行政大樓
2017年の台湾師範大学の正門から見た、台北高校時代の本館。現在、旧本館は「行政大楼」というオフィスビルとして使われている。「行政大楼」と書くとなんだか上段に構えていかつそうに見えるのだが、要は職員室兼事務所のことだったりする。
70年前の1930年代の写真と見比べてみても、正面の校舎は何一つ姿を変えず鎮座していることがわかる。
校舎は90年以上の時を経ているため少し老朽化が目立つものの、
「まだまだ若いものには負けんよ!」
と背筋を伸ばしている老兵の威厳を醸し出している。あと5年で満100歳の誕生日を迎えることとなる。
ヤシの木が南国感を漂わせる校内。旧制高校の時も、ヤシの木が外地の高校という感を醸し出していただろう。
ヤシの木は、台湾らしい南国の雰囲気を映し出すシンボルと化しているが、実は意外にも台湾には元々生えておらず、日本が持ち込んだものだったりする。
上にあるのは師範大学の校章だが、『論語』の「天、将に夫子を以て木鐸と為さんとす」から取られ、1973年から採用されている1。
しかし、視覚的には鐘にしか見えないのだが…木鐸と鐘を掛けたのだろうか。
「鐘」とこの大学は、旧制高校時代からのご縁がある。
前編で紹介した台高の名校長、三澤糾がアメリカから持ってきたという「自由の鐘」が、1929年に高校校舎屋上に備え付けられた。台高が台湾師範大学になっても残されていたのだが、1982年に老朽化により撤去されたという。「鐘」は台北高校から伝承したシンボル、校章もそれを引き継いでデザインされたのであれば、この鐘の形も納得がゆく。
しかし、1973年といえば台湾は戒厳令の真っ只中。国民党が反日を掲げている以上、おおっぴらに日本からの伝承ですと語れない空気でもあった。逆に、台高の伝説をリアルで知っている人もいた時代でもあり、学問の神様である孔子の名を借りつつ、校章に「自由に鐘」を入れた。
…というのが私の推論。公式には何も書いておらずあくまで私の勝手な考察だが、歴史を掘っていくとそうとしか思えない。関係者の方、時代も変わったんだしそろそろ暴露してもいいのではなかろうか。
ちなみに、いったん撤去された「自由の鐘」は、2013年に日台の台高OBたちによって復活を遂げている。
校内の様子
入口のロビーは4本のがっしりとした大黒柱の形、そして上のシャンデリアが大正時代を彷彿とさせる。
奥の校舎へと続く渡り廊下がある。この光景を見て、あ!と思い出したのが、
前回アップした旧制高校時代のストームの写真はこの廊下ではないかと。柱など物理的なものだけではなく、今にも高校生たちが校舎の奥から踊ってくるような雰囲気も似ている。
階段も学生たちの数十年の風雪に耐え貫禄が出ており、細部まで見てみると、装飾にかなり凝っていることがわかる。
これ、総督府もこれを建てるのに相当金を使ったのだろうと。そこまで金をかけてまで、良い教育と校舎を提供したいという気持ちが、細部まで凝っている建築にあらわれている。
手すりも当時のままと思われる。かなり古びているものの、黒光りして逆にかっこいい。
旧本館の廊下の上などに、小さな灯が架かっている。おそらく今は現役ではないだろうが、これも大正時代~昭和初期の面影の一つで、我々にとっては懐かしささえ感じる小さなデコレーションである。
戦前の建物に惹かれる理由の一つは、無駄と思える場所にも細かい気配りやデコレーションという、製作者や建築家の心意気が込められているところ。今の建物は確かに機能的かつ合理的にできている。が、「無駄」をとことんまで省いた結果、個性がなくなった金太郎飴ばかりできて魅力が全くない。建物だけならいいのだが、人間までそうなっていることに少し危機感を感じたりする。
扉も旧制高校のまま。大正時代~昭和初期のデザインは、一風変わっているようでどこか和風という感覚がする。
写真は違うのだが、トイレも同じ扉であった。トイレは旧制高校の時から水洗だったという記録が、高校OBの作家、邱永漢の自伝に残されている。
台北の下水道敷設のスタートは東京より古く、具体的な数字は失念したが、戦前の普及率は東京に比べ、確かダブルスコアなほどの差があったはず。日本人台湾人を問わず中の上の家庭はほとんど水洗だったらしく、東京ですら当時は水洗便所なんて夢のまた夢の時代に、台北は東京の先を進んでいたのであった。
以前見た台湾のテレビの歴史番組で、こんなやり取りがあった。台湾語だったので字幕を見てでのことだが。
A(歴史学者)「日本時代の僕の家は水洗便所だったってお爺ちゃんが言ってた」
司会「ほう!」
A「でも、戦後に引っ越した家はトイレすらなかったんだって」
司会「なんだ、国民党は国民のトイレまで退化させたのかよwww」
台北高校の校舎の水洗トイレを見た邱永漢はいたくテンションが上り、
「絶対この学校に入るぞ!」
と固く心に誓ったと自伝に書かれている。水洗トイレでテンションが上がるのも当時小学生ならではだが、台南から出てきた少年にはそれだけ衝撃的だったのであろう。
現在は事務所兼職員室として使われているが、表札を見てみると、
「○○学部長 △△」
「副学長室」
などといかつい肩書が書かれた部屋がズラリと並んでいる。
私が師範大学に行きこれらの写真を撮影したのは、3年前の8月だったのだが、夏休みのせいか人の気配が全くなかった。俳句の季語に、蒸し暑さMAXをあらわす「溽暑」(じょくしょ)という言葉があるが、私が行った時は、
「これが溽暑か・・・」
と口に出たほどのすさまじい暑さであった。あまりの溽暑ぶりに教授たちも、やってらんねーとお家に帰ってしまったのだろうか。
そんな偉い先生方の部屋の奥に、校長室がある。日本時代から校長室の位置変わっていないそうだ。
私が訪問した当時の校長(学長)は、張國恩氏となっていたが、念のためにWikipediaで調べてみると、張校長は2018年で退任、現在は呉正己氏という校長に変わってしまったようである。
普通教室(現普通大樓)
旧本館の裏には、「普通教室」という校舎が建てられている。現在も名前が「普通大樓」に少し変わっただけで、現役の教室として使用されている。
上の写真を見てもわかる通り、旧本館と普通教室の間にはヤシの木などの木々が生え、南国らしいミニジャングルとなっている。そこを現在、学生たちは「維也納森林」(ウィーンの森)と呼んでいるという。何故ロンドンでもなくニューヨークでもなく、ウィーンなのかはわからない。
「自由の鐘」あたりの「ウィーンの森」は、木々が南国の強烈な日差しを遮ってくれ、少し清涼感を与えてくれる。といっても、暑いことには変わりない。
「旧普通教室」は3階建ての校舎で、本館ほどのインパクトはない。私も気づけば、本館に比べてあまりどころかほとんど写真を撮っていない。名前の通りよほど「普通」だったのか、それとも辱暑でで完全にバテて余裕がなかったのか。たぶん、どちらもだと思う。
校舎も、ピカピカの行政大樓に比べるとボロボロ感というか、使い古された感満載である。こちらの方が人間の生活のにおいがして、個人的には好きではあるのだが。
それにしても、写真左端のドアに貼られてある「恭贺新禧」(謹賀新年)とは…撮影した時期は8月だったのに。
講堂(現禮堂)
長細い旧本館の横、上の地図③の位置に、「禮堂」と書かれた赤レンガの建物を見ることができる。
これも旧制台北高校からの生き残りで、高校時代は講堂として使われ、現在でも同じ用途で使われている。
(2017年8月)
高校時代の写真(1937年以降)と現在を比較してみても、昔のまま残っていることが、よくわかる。
旧講堂を細かく見ていくと、かなり細かいところまで装飾が行き届いている。建築技術が発達し、型を取って貼り付けるだけで細かい形を作ることができるようになりコストは安くなったとは言え、当時の総督府の気合の入れようが今にも伝わってくる。
その中に、鳥のような、動物のような意匠があるのだが、これは何なのだろうか。
生徒控所ー現学生福利センター
地図④の位置に、「文會廳」という建物がある。
ここはかつて旧制台北高校の生徒控所だったところで、現在は学食+(日本の大学でいう)生協となっている。ついでなので、学食を覗いて台湾の大学生の胃袋事情でもレポートしようかと思ったのだが、夏休み中のせいか残念ながら閉館中であった。
台高創立95周年
台高は1922年に創立されたのは既に書いた通り。
ということは、2017年の今年は創立95周年という計算となる。国立台湾師範大学もそれは忘れていなかったようで、この年95周年のイベントが行われたという。私が訪れたのはその後だったので、少しもったいない気がした。
また、師範大のHPの中に「臺北高等學校」のサイトを作成し、台高の歴史を紹介している。
「日本語」をクリックするとオール日本語につき、クリックに勇気は不要である。何気にURLが日本統治時代のTaihoku(台北)となっているところに、台湾人の歴史に対する真摯な姿勢が見えてくる。
台湾の学校、特に歴史が長い学校には、自分の学校の歴史を紹介した「校史館」がある。そこが日本と違うところで、伝統ある高校や大学には必ずあるらしく、台湾大学のように事実上の博物館と化しているところも。
台湾師範大学もその例に漏れず、校史館が図書館の中に作られているそうである。その中に台北高校の資料室が別個で設けられており、日本語での解説もあるようである。
しかし、なぜ「ようだ」かというと、私、行ってないのである。正直、うっかりしてしまったとしか言いようがないミスだった。
実地探索の時は校史館の存在に気づかず、気づいたのが金曜日の夕方。仕方ない、明日行くかと思ったら、ここはなんと!「土日は休館」。なんでこんなBADなタイミングで気づき、そしてよりによって休館なのだと。己の運の悪さに頭を抱えるばかりであった。
仕方ないので、グーグルマップから中の一部をくり抜き、自分への慰めとする。
前回訪問時は無念の思いで参観を断念したのだが、次に台北に行く機会があれば行ってみたいと思う。台北高校に限らず、旧制高校に少しでも興味があれば覗いてみる価値はあるかと。入場は無料なのだが、「土日は休み」なのでくれぐれもご注意を。
こうして旧制台北高等学校を考古学的に掘り進めていくと、台北高校の名前はこの世から消えても、そのDNAは後進に引き継がれていっていることがよくわかった。
これは台湾だけではなく日本も同じ。旧制高校は消えても、その遺伝子を継いだ大学が黙って引き継いでくれていることを、一人の教養主義者として切に願う。
他にもこんな記事があるので見てね!