台北高等学校の歴史
序章で旧制高校について説明したところで、次は本題の台北高校についてである。
旧制高校とは何ぞやという人は、まずは序章をお読みいただきたい。
台北高校OBである王育徳によると、台北高校は「湾高」と呼ばれていたそうなので、以下「湾高」とする。
大正11年(1922)、日本統治下の台湾で『第二次台湾教育令』が公布された。
日本による統治が始まった当初の『台湾教育令』では、台湾在来の住民(本島人・広東人(客家人)・原住民)はどんなに優秀でも旧制中学以上の中等教育を受ける権利がなかった。これは差別というより、中等教育以上の日本語能力の問題であった。
内地人(台湾在住の日本人)は小学校、本島人は公学校という現地住民専用の学校と分かれており、公学校はまず日本語のお勉強から。1922年の『第二次』でも初等教育は「内地人=小学校、本島人=公学校」という区分けは変わらないものの、学校の授業について行ける日本語能力があれば小学校への編入も可能と改められた。といっても、台北の場合小学校の定員100人につき、内地人:それ以外=95:5くらいの比率ではあったが。
『第二次』でいちばん変わった部分は、中等教育以上の教育差別待遇を全廃したこと。法律上は内地人も本島人も能力検定では平等となり、中学校以上への進学が可能となった。当然、日本語が元々できる内地人有利には変わらなかったものの、ゼロだった以前と比べると着実な進化であった。また、それまでなかった台湾人用の中等学校も建設され、台湾人にも大学生までの道がここに法により保証されることとなった。
何故そのような変化が起こったかというと、内地の政局の変化が大きく影響している。
大正7年(1918)、内地では原敬による日本史上初の政党内閣が誕生した。
学校の歴史の授業でも習うことではあるが、この原敬首相、台湾の経営に対しある政策を持っていた。
当時の台湾総督は行政権・立法権・司法権の三権はおろか、軍人なので軍も動かす権限をも一手に握り、俺様すなわち法律。「土皇帝」と言われていた君主であった。が、実際は予算権、つまり財布を内地に握られていたので、「土皇帝」はただの裸の王様。台湾総督が本当に「土皇帝」なら、嘉南大圳は予算の承認を得る必要もなく明石元二郎総督の鶴の一声だけでできただろうに。
原は、軍人限定だった総督の地位を文官にも開放するという考えを、首相になる前より温めていた。
原内閣には「高等教育の充実」というマニュフェストがあった。今まで超狭き門だった大学の門戸を広げ、その予備学校的な旧制高校も全国に増やすことにによりハードルを低くし、より広く人材を育成するというもの。
この戦略は、内地ではほぼ原の計画どおりに実行された。早稲田大学や慶應義塾大学、関西大学や同志社大学などの私立大学が正式に大学になったのも、原内閣の高等教育改革の時である。
原は対台湾政策について、「内地延長主義」という内地と同等に扱い、将来的な同化の支持者であった。
今でも台湾の教科書にも出てくる、統治時代初期の総督に次ぐナンバー2、後藤新平(民政局長)は「生物学的植民地統治」を採用した。これは現地の習慣を重んじ無理やり日本を押し付けない方法ではあったものの、あくまで日本人は日本人、台湾人は台湾人と一定の壁を作るやり方だった。原はその時代は終わったと判断、総理大臣就任後に台湾に関する法律を国会で通し、台湾総督は文官時代に入る。
そこで台湾に派遣されたのが、田健治郎という文官総督であった。彼は台湾史における最初の文官総督だが、原の政策支持者でもあり彼の台湾政策の実行者、事実上の名代として台湾に派遣された。
その流れ原敬の方針の一つとして改正されたのが『第二次台湾教育令』。
台高は、そんな雰囲気の中で誕生した。台高は官立でも公立でもなく、台湾総督府立であり、正式名称は「台湾総督府台北高等学校」である。
しかし、台高は最初から現在の台湾師範大学の位置にあったわけではない。設立はされたものの、肝腎の校舎がなかったのである。
開学当初は、最初は台北にあった「台北第一中学」という旧制中学に居候の身であった。
台北第一中学、略称「台北一中」は、台湾一の中学として日本統治時代を通して君臨し、現在も『建國高級中學』という台湾一の進学校(男子校)として君臨している。
昔ながらの建物が敷地内に残っており、また時期を置いて書いてみたいと思う。
(臺灣百年歷史地圖内『台北市地図(1930年)』より)
1926年には待ちに待っていた新校舎が完成し、4年間の居候から正真正銘の高校へとバージョンアップを達成した。その時、『第二次台湾教育令』の目玉第二弾として、台高の事実上の姉妹校として計画中だったのが、のちの台北帝国大学である。これについての詳細は、後に書く台北帝国大学の記事で述べることにする。
尋常科と高等科
1922年に創立した台高だが、まず作られたのが「尋常科」。
旧制高校は3年制だということは前回で説明したが、7年制の高校も存在していた。台高もそのうちの一つであった。
小学校から大学へは、中学校・高校と受験ハードルを越えていかなければならないのは当然のことだった。が、一つの例外ルートがあった。それが高校の尋常科。
旧制中学だと高校に入るための地獄を経由しなければならなかったが、高校の尋常科に入ってしまえば、今後の受験のプレッシャーは全くなし。2年連続で留年さえしなければ(2年連続留年で事情の如何を問わず退学なのが旧制高校のルール)、寝ていても大学までベルトコンベアでご案内。今の中高一貫校と同じ、いやこちらの方が全国の大学選びたい放題な分恵まれていた。
さらに、尋常科は中学経由より1年間就学年数が短いという特権が存在していた。中学も成績が優秀であれば「4年修了」という事実上の飛び級があるが、それは「きわめて優秀な人」のみ。高校尋常科は無条件で漏れなく全員。そこが全く違う面であった。
尋常科を設置している高校は非常に少なく、基本的に公立と私立のみ。それも募集人員自体が今の高校1クラス分と非常に少なく、中学から高校に入るよりはるかに狭き門であった。
東京の場合、府立高校や私立高校、そして東京高校に官立唯一の尋常科が設けられていた。尋常科に入ってしまえば大学まで安泰な上、世間からは13歳にして「末は博士か大臣か」とチヤホヤされる。親ともども血眼にならないわけがない。
当時の受験雑誌などを見ると、昭和初期頃の東京の中学難易度は以下のような感じだったという。なお、当時は偏差値などの相対的な基準がなく、お受験する人や保護者、世間の評判などの主観のみなので悪しからず。
■お受験界の超サイヤ人ゴッド:府立高校、官立東京高校、各私立高校(の尋常科)、東京女子高等師範付属高等女学校(現御茶ノ水大学付属高校)
■ふつうにすごい:府立一中(現都立日比谷高校)、四中(現都立戸山高校)、東京高等師範付属中(現筑波大学附属高校)
■まあ普通:麻布中(現私立麻布高校)、開成中(現開成高校)
■敢えて言おう、カ○であると:早稲田中・慶応(普通部)他
台北高等学校の場合、
1922年 創立。とりあえず尋常科のみ
1925年 高等科設立
1926年 古亭町の今の敷地に新校舎が完成、引っ越し
(1928年 台北帝国大学設立)
という流れ。高等科を作るのは単科大学を一つ作るほどの資金と土地、エネルギーが必要なので、まずは4年制の尋常科だけを作り、彼らが卒業するまでに高等科を作ろうという魂胆であった。
後で高等科を作る前提で尋常科だけ作ったものの、高等科が出来ずに終了というパターンは、大阪に存在した。大阪市は既に大阪商科大学1を持っていたが、府立高校があった府に対するライバル意識か、
「うちも作ろうじゃないか」
と「旧制大阪市立高校(仮名)」の設立を目指し、まずは尋常科(旧制中学)を創設した。が、戦争、敗戦という混乱で高等科は作られないまま、計画は白紙に。しかし尋常科だけは戦後も残り、大阪市立高校(新制)として現存している。市立高校なのに所在地が市から遠く離れた枚方市にあるのも、そもそもそこに「大阪市立高校」を作るはずだったから。ちなみに、「大阪市立高校」が枚方市にある違和感を台湾に置き換えれば、「高雄市立高級中学」が何故か台南市や屏東市にあるようなものである。
内地の尋常科が非常に狭き門だったのと同じく、台高の尋常科も非常にに狭き門であった。
昭和12年(1937)当時の台北高校の学生数は、尋常科と高等科を合わせて453人。尋常科の定員は、今の高校の1クラス分の人数しかいない少数精鋭主義であった。
さらに見てみると、本島人(台湾人)の人数は各学年4~6人程度。実はこの人数が台高尋常科の見えない台湾人枠となっていた。
その尋常科の狭き門を通り抜けた一人は、こう書いている。
「(台湾)全島の小公学校の(成績が)一番二番が400名集まっても、たった40名しか入学できない狭き門であった。しかも、40名のうち35人が内地人、本島人は毎年4,5人しか合格できなかった」
邱永漢『わが青春の台湾』
邱永漢の少年時代の自伝からの引用だが、彼の記述は事実であることが資料と数字でも裏付けられた。
こんな資料もある。
日本は確かに、台高や台北帝国大学など、植民地に高等教育機関を作った。それを誇らしい、日本人の偉業だという人がいる。
しかし、残念ながら内地人(日本人)と台湾人の受験枠は決して平等ではなく、内地人と比べて台湾人への門戸が非常に狭いことは明らか。法律が変わり字面は日本人と台湾人平等になっても、現実はこの通り。
台高に文科の台湾人が少ない理由を、ある作家が書いている。
「(本島人が)うっかり文科を志望すると、大学を出ても弁護士になるか、新聞記者になるくらいしか道がひらけていなかった。内地人のように官途に就くことはまず考えられなかった。台湾製糖の技師として就職ができたかもしれない。しかし高級管理職となるとやはり厳しく、定年まで内地人の部下として働かなくてはいけなかった。
(中略)たいていの本島人学生は、個人営業のできる医者への道を選択し、他のクラスがすべて5~6人程度なのに対し、医学部の直線コースである理乙だけはクラスの40%近くを本島人が占めていた。
文甲を選んだのは私のクラスは私を含めて6名の本島人がいたが、王育徳君と私だけが東大を志望し、他の4名は医学部へ方向転換して医者となった」
邱永漢『我が青春の台湾 わが青春の香港』
「もともと本島人にとって、文科系を志望することは、海のものとも山のものともつかぬものを追求する一種の冒険同様だった。これに比べれば、医学はいつの時代にも元本確実な投資と言えた」
王育徳『昭和を生きた台湾青年』
実際は内地で検察官になったり、大蔵省や文部省に入省したり、作家の陳舜臣氏のように国立学校の教員、つまり国家公務員になった本島人もいたのだが、それは内地での話。台湾島内では差別が激しく出世は絶望であり、内地へ行くしかないという現実を表すことでもあった。
しかし、露骨な差別を受けてもなぜ「元日本人」たちは概ね親日で、現在ひ孫世代の若者に「懐日」まで起きているのは何故か。「元日本人」のインテリたちは口を揃えて言う。
「しかし、不満と言えばそれくらいだった」
台高の学科は以下のとおりである。
資料によると、雰囲気的に
■文科甲類:よく学べよく遊べ、ストームで大暴れ大好きなバンカラ組
■文科乙類:東大に入らずんば人にあらず、東大一直線ガリ勉組
■理科甲類:文科甲類の理系版。授業そっちのけで趣味の世界に入るオタク組
■理科乙類:ただの医学部には興味ありません!医者のタマゴ組
という分かれ方だったという。
当然、尋常科の生徒は卒業すると全員高等科へ御案内。
当時尋常科高等科にかかわらず、台高に合格した人はラジオで速報が流れ、合格者が放送で読み上げられていた。内地人・本島人を問わず台高に合格することは夢のまた夢。自分の名前がラジオで流れた瞬間、もう死んでもいいと思ったと合格した台湾人OBの回想にある。
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