台北高等学校の雰囲気
台高の学生は「日本最南端の高校」として、また内地以外に作られた数少ない高校として、南国の独特の雰囲気のもと、学生たちはのびのびと自由気ままな学生生活を送っていた。
しかし、自由気ままは責任を伴うもの。今風に言えば旧制高校生はすべて「自己責任」の世界。ストームで暴れるのは結構だし学校もできるだけ庇うが、後始末は自分でつけろ。これが高校生の基本であった。
授業も非常に厳しく、ゲーテやニーチェはもちろん、経済や法律の本も英語やドイツ語などの原書で読み、文法の授業などそれくらい中学でやってきただろうが前提、授業でわかりませんなど言おうものなら、
「そんなものもわからんと高校生やっとるのか!」
と先生の怒号と雷が落ちてくる。
大いに遊んだが大いに勉強もし、時間を惜しんで古今東西の名著に触れ、寮や下宿で同級生と夜ごと唾を飛ばして議論する。
「人生最大のモラトリアム期間」
現代風に言うと高校生活はこの一言で表現できるはずである。
ここからは、写真で当時の雰囲気を。
ヤシの木の下で腕と肩を組む台高生。
校舎と学生たち。後ろにある校舎は当然現存し、現役で使われている。
グラウンドから見た校舎。
旧制高校時代の足は最初は学校前にバス亭があり、市街地までダイレクトに結んでいた。料金は8銭。のちに学校の裏側に台北~新店まで、今のMRTの新店線の原点となる台北鉄道という私鉄が開通した。学校からは少々遠いものの、「古亭」という駅が設けられそれに乗って通学する人もいた。
バスは時刻表通りに来なかったこともあり、それに怒った台高生たちがバス停の標識を引っこ抜き、高校の中にある噴水の中に投げ込んだというエピソードが残されている。
台北高等学校には「七星寮」という学生寮があった。寮は他の旧制高校の例に漏れず完全自治が約束されていて、写真は寮の自治委員会の選挙のシーンだと思われる。
台高かどうかは確定できないが、若者たちのやんちゃぶりはいつの時代も変わらない。エリート高校生といっても、10代後半のガキンチョなのがこの写真でわかる。
閉められた門を乗り越えることを、学生用語で「ゲート・オーバー」と言っていたという。高校生の象徴の手ぬぐいも、こういう使い方があったのか。
台北一の繁華街、「栄町」にあった本屋で立ち読みをする台高生…と本に書いていたが、実は台湾大学の資料室に少しアングルが違うものの、写っている人物が全く同じ写真があり、台北帝国大学にあった予科の学生という説明があった。どちらが本当かわからない。
いずれにしても、学生たちより左下の子供の屈託のない笑顔が素敵で印象的である。
ほぼ同時期に調査された、台高と台北帝国大学の学生がよく読む小説ベスト5。どちらも上位は当時流行った小説だそうで、内地で流行った本がすぐに台湾でも販売され読まれていたことがわかる。
屋台の支那そばを食らう台高生たち。今は地元民や観光客の腹を満たしている台湾名物の屋台は、昔から健在であった。やっぱりカメラは珍しいのか、子供が思い切りカメラ目線である。
昭和17年(1942)の台北高校生。戦争中なので、内地ではここまでおおっぴらにワイワイ飲み会はできないはず。食糧事情はそんなに乏しくなかった、昭和17年ならまだ余裕すらあっただろう台湾ならではの風景である。
かわいいメッチェン(高校生用語で「女の子」という意味)目当てに喫茶店でコーヒーを。大人への階段かタバコを吸っている人もいるが、テーブルの上に灰皿がない。もしかして床にポイ捨て!?
公園での台高生。真ん中の学生はロン毛(学生は坊主が当たり前の時代なので、これで十分ロン毛)にマント、高下駄と高校生らしい典型的なバンカラである。
後ろの高い塔はどう見ても総督府(今の総統府)なので、おそらくここは日本統治時代は「台北新公園」と呼ばれた現ニニ八和平公園であろう。
後ろの学生の胸には右から、「台高文三甲クラス會」と書かれている。たぶん寮で行われたクラスの打ち上げであろう。
台高にも当然、ストームが存在していた。台高ストームは内地出身の学生が持ち込んだ習慣で、保守的な台湾ではかなり煙たがられ変な目で見られたそうだが、そんなもの学生はお構いなしで若いエネルギーを発散していた。写真は街に繰り出す街頭ストーム。
校内ストームならみんな裸になって太鼓でリズムを取りながら大暴れ。ものすごく楽しそうである。
旧制高校では、年に1回学寮が主催する「学寮祭」が行われていたが、台高でも当然存在していた。台高の学寮祭は学生が今風に言えばコスプレをし、高砂族の歌に合わせてヤシの木の周りで踊る「台高踊り」が名物であった。上の写真でも、女装や水着姿、高砂族などの仮装をした学生が踊り、そのまわりに近所の市民や子供が集まって見ている。
この写真一枚で、台高の自由な空気が伝わってくる。
コスプレは台高だけでなく、台北市や台中市など主催の仮装コンテストも開催されたことがある。台湾がコスプレ文化を抵抗なく受け入れているのも、もしかして日本が台湾に置いていった文化なのかもという想像が拡がる。
学寮祭にやって来た女性とのこと。何気ない一枚だが、旧制高校は基本的に男性のみの超硬派で女人禁制。学園祭でも女性が入ると学校がひっくり返るほどの大騒ぎ。実際、旧制第一高等学校で学生の母親と妹が入っただけで、学校中が蜂の巣を突いたような大騒ぎ。連れ込んだ学生の退学を要求する学生側と庇う学生で大激突し、校長まで巻き込んで学校中の大激論となったほどだった。
写真が残っているくらいなので、台高はおめかしした女性も入れるほどの自由な気風だったのかもしれない。
しかし、なんとなく男性に見えないこともないような…気のせいか。
日本の敗戦で台高は接収され、台北高等学校としての歴史に幕を閉じることになる。
「民国35年3月5日 別離ノ宴」
と書かれており、他にも「萬年床」などの高校寮用語が見えるので、民国35年=1946年に行われた、寮でのお別れ会の写真なのだろう。
台高生たちの進学
前回述べたように、旧制高校生は大学へフリーパスであった。台高もその例に漏れず、卒業生は全国の大学へ散って行った。
上表は台高生たちの卒業後の進路である4。台湾師範大學がネットで公開しているデータを元に、筆者がまとめたものである。
台高に特徴的なのは、理系に台北帝国大学への進学がかなり顕著だったこと。
年表風に書くと以下の通りとなる。
1925年 台北高校高等科設立
1928年 台北帝国大学設立
何を意味するかというと、台高と台北帝大はほぼ「姉妹校」という関係だったということ。台高が総督府立なら帝大も総督府立。できるものなら内地の大学に行かず、「付属大学」に進学して欲しいと。
年表っぽく書くと、台北帝国大学が台高高等科の卒業に合わせた受け皿として設立されており、一本の教育政策に基いて作られていることがわかる。