長谷川清-隠れた台湾の名総督

長谷川清総督台湾史

最近、日本と台湾の関係が急速に近づいていますが、台湾の発展に貢献した日本人と言えば、児玉源太郎・後藤新平・八田与一・明石元二郎などなど、「台湾に貢献した日本人」などでググれば名前が出てきます。

ところが、どのサイトを見ても、「あの人」が出てくることはいない。本当に一人も書いていない。八田や児玉、後藤くらいは、言っちゃ悪いがちょっと台湾のことお勉強した人でも出て来ます。彼らほど輝いてはいないけれども、いぶし銀に光る『あの人』のことを忘れてはいけません。

本日は、そんな歴史の表舞台の脇役、しかし鈍く光るある海軍提督のお話。
今回は、「台湾提督」としては本ブログで、海軍軍人としては姉妹ブログである「野良学徒の歴史研究」でアップするという2部仕立てとなっています。一粒で2度おいしい本ブログをお楽しみ下さい。

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長谷川清

長谷川清台湾総督

彼の名は長谷川清。海軍大将でした。第18代台湾総督でもあります。
関係ないですが、初めてこの人の写真を見た時、高嶋政伸にめっちゃ似てるやんと思いましたが、皆さんは如何でしょう。

長谷川清海軍大将と聞いて、

ああ、あの人ね!

とすぐわかる人は、相当の海軍人物通か、あるいは彼の郷土である福井県の人たちでしょう。むしろ知らない方が当たり前。別に戦争で派手に殊勲を挙げたわけでもないし、大将ではあるけれども、連合艦隊司令長官や大臣などの要職に就いたわけでもない。
いちおう海軍の慣例として戦艦『長門』の艦長に1年間就任していますが、阿川弘之の名作『軍艦長門の生涯』にもほとんどスルーされているほど影が薄い。『軍艦長門~』は上中下全3巻通しで4~5回は読んだけど、名前出てたっけ?という程度です。

軍人としては知名度はかなり低く、よほどの海軍通でない限り低い方ですが、この人が実はかなりいぶし銀の人だったのです。
ラーメンに例えれば、有名どころの山本五十六がメインの麺だとすれば、長谷川は豚骨スープの出汁と言っていいと思います。歴史の主役ではないですが、絶妙な脇役ではあります。

大正時代以降の日本では、軍人が「文官」になる際にあるルールがありました。それは「軍人を引退する」ということ。現役軍人のまま文官になる事は、いわゆる二股として基本的に禁止でした。
専門用語で言えば「予備役編入」というのですが、長谷川総督は現役のまま総督になりました。

理由は、
「この人が予備役になってくれるとちょっと…」
という海軍からの要望があったから。乱暴な言い方をすれば、予備役編入ということは「要らない子扱い」ということ。ルールとは言え、軍が「この人予備役でいいよ」ということは、この人要らないという意味もあり、現役のまま総督に就くということは、台湾統治の初期以外では異例でした。

ちなみに、現役軍人が総理大臣になる時も自動的に予備役編入というのが決まりだったのですが、それを初めて、そして唯一破ったのが東条英機でした。東條が何かと評判が悪いのは、こういう決まりを「俺は例外」と平然と破ったこともありました。

 

長谷川総督の方針

小林躋造

長谷川が総督に就任する前の総督は、小林躋造という予備役海軍大将でした。
下の名前は「せいぞう」と読むのですが、「臍」(へそ)に字が似ているので、海軍では「へそぞう」というあだ名で呼ばれていた人です。
ちなみに、この人は台湾総督就任確定と同時に予備役になっています。

彼の台湾政策は強圧的でした。
「皇民化政策」で、今まで任意(日本人・台湾人問わず自由参加)だった神社参拝を強制したり、台湾の民間宗教を「迷信」と決めつけ、お廟への参拝を禁止、お寺やお廟を破壊したりしました。これを「寺廟整理事業」と言います。
また、ラジオの台湾語放送の廃止や神社への参拝奨励(事実上の強制)、台湾住民の間で人気があった人形劇の禁止なども行い、本島人と呼ばれた台湾の住民はもちろん、内地人からも「やりすぎではないか」と総督府に苦情が寄せられ、帝国議会でも問題にされたほどでした。

小林も海軍の中では「良識派」と呼ばれた提督、決して愚かとか頭でっかちというわかではなかったのです。しかし、時代の空気は人のネジをこうも緩めてしまうのか。

台湾の「反日勢力」や日本のマスコミが、皇民化がどうだの、台湾人をいじめたうんぬんという根拠が、この小林総督時代の政策です。確かに事実なのですが、それはたった4年間だけ。その4年間を、まるで50年間ずっとやってきたような捉え方をするのが、マスコミお得意の印象操作。
それも、NHKの某番組では「寺院・廟の破壊は全国的に大々的に行われた」とありますが、統計書を見ると実際は地域によってバラバラだし、お廟の数が増えている地域すらあります。
彼らの詭弁珍弁に惑わされないよう、我々はきちんと歴史を学び、メディアの嘘を見抜くリテラシーを身につけましょう。

長谷川総督は就任直後、小林が行った台湾住民の文化を否定する所業を、

やりすぎ!

とすぐにいったん停止。総督府に調査をさせた上で、

「国策に影響がない限り、住民が何を信仰しようと自由

と発表しました。

本人も戦後に、

 

「冷静に判断して就任早々、慎重な調査、研究を経た後に根本方針が確立するまで一応、停止することにして実際には寺廟整理を中止した。
その結果、台湾人諸君は大へん喜んだが、私としても、甚だ快い思い出となっている」

引用:長谷川清『治台回顧』(『長谷川清傳』に掲載)

と述べています。

長谷川総督の方針は、「内台一如」(日本と台湾は一つである)という、統治の原点回帰でした。
「内台一如」という施政方針は、歴代の総督も数々口にしていました。初代総督の樺山資紀や初の文官総督田健次郎など、施政方針に挙げた総督は数知れず。
ところが、「内台一如」といっても実態は変わらず。内地(日本国内)からやってきた内地人への優遇や本島人への上から目線などが横行し、台湾人の間では白けた空気が流れていました。
長谷川総督が就任した際も、方針として発表は出ていましたが、

どうせ口だけペーパーだけだろ

と台湾住民は呆れていたそうです。

ところが、長谷川は口だけではありませんでした。

当時の内地人と本島人の間には、明確な給料の違いがありました。タテマエ上は平等なのですが、日本人は「海外勤務手当」という手当がつき、本島人の60%増しでした。これを「六割加俸」といい、民間企業ではなかったところもありましたが、官の世界では厳密な「給料差別」が存在していました。

しかし、話は少々外れますが、給料差別があったからといって台湾人が「搾取」されていたわけではありません。

例えば、映画『KANO』で有名になった嘉義農林卒の、成績トップ生徒の製糖会社の初任給は35円だったそうです。当然、同じ嘉義農林卒でも内地人は会社によっては「六割増し」ですが、当時の台南で「25円あれば、贅沢しなければ家族4人が一ヶ月十分過ごせた」(邱永漢氏の回想)という時代の35円。内地でも実業学校卒の初任給は30~40円だったので、特に給料に違いはなし。しかも台湾は内地に比べ物価が安かったので、むしろ「高給取り」の部類だったという解釈もできます。

また、台湾は南方進出への拠点としての役割もあり、台湾総督府は支那事変(日中戦争)で占領した中国華南や海南島の行政も委託されていました。また、今のマレーシアやシンガポール、南洋諸島(現在のパラオなど)に出張も多かったのですが、出張者は内地人のみ。本島人はいくら能力があっても出張不可でした。

歴代総督の何人かはこれにメスを入れようとした形跡がありますが、役人の反対に遭ったのでしょう、ほぼ放置でした。
長谷川総督はそこにメスを入れます。総督府の本島人職員の給料を「六割加俸」、つまり内地人と全く同じ基準にし、給与基準も能力主義にしました。

また、こういう話もあります。
台湾総督への面会は、今までは秘書官が用件を聞き、優先順位を作って選別していました。それは至極まっとうなやり方なのですが、長谷川総督は、

そんなことせんでもいい。僕に会いたい人は全員通せ

面会を完全フリーにすることによって、秘書官の負担を減らそうという魂胆だったのでしょうが、これが

総督がフリーで会ってくれるらしいわよ!

と台湾中で評判となり、総督府に面会者が殺到。かえって秘書官の仕事が増える結果になってしまったのですが。

長谷川は、教育改革にも乗り出します。
それまでは、台湾の初等教育は「小学校」と「公学校」に分かれていました。小学校が日本人向け、台湾人向けが公学校でした。公学校は、日本語が不自由な台湾住民のための小学校で、教科書も総督府自ら編纂、カリキュラムも小学校と少し違っていました。

長谷川総督はこの区別を一切廃止。すべて「国民学校」としカリキュラムも旧小学校と同等のものに改善しました。戦争による皇民化政策という事情もあったとはいえ、台湾人の民度も十分熟したと判断しての改革だったのでしょう。

統治者の日本が「初等教育オタク」だったせいで、初等教育にかけてはこの時期の台湾はかなりの水準に達していました。が、一つ頭を悩ませる問題がありました。
台湾の公学校への就学率は、本島人の間では55~60%でした。義務教育ではない当時としては非常に高い数字でしたが、この数字、ちょっとしたトラップがあるのです。
本島人の男子の就学率は9割くらいとほぼ100%に等しいのですが、女子の就学率がなんと2~3割。男女平均合わせて甘めで6割ということだったのです。
同じ時期、内地人が全員就学の100%、山地に住む高砂族でも8割だったことを考えると、明らかに問題です。
これには台湾人社会が長らく抱える女性蔑視という事情もあり、女子の就学率がなかなか上がらない状態でした。

長谷川もこれを問題視しました。彼は台湾の各州・庁・市に予算を割り当て学校教育の充実に注力し、あわせて女子の就学率向上を指示しました。
その結果、就任2年後の昭和17年(1942)には本島人の就学率は70%超え。義務教育化への礎としました。

太平洋戦争が始まり台湾も徐々に戦争色に染まっていったのですが、本島人の間にはある不満がありました。

我々は日本人なのに、何故戦争に参加できないんだ!

この不満に応えるべく、昭和17年(1942)に「陸軍特別志願制度」を導入しました。
とりあえず1,000人くらい1募集するか(どうせあまり来ないだろう)、というノリで始めた制度ですが、蓋を開ければ応募数42万人、競争率320倍(!!)。
翌年、海軍の特別志願も募集するのですが、60万人が志願しました。

こういった方針は、長谷川の総督としてのある哲学によって貫かれていました。それは「台湾を不沈空母とする」という考えでした。
不沈空母とするには、内地人だ本島人だ高砂族だと区分してお互いいがみ合ってはいけない。みんな「日本人」としてこの難局を頑張らなければならない。
映画『KANO』のモデルとなった嘉義農林も、内地人・本島人・高砂族の違う民族が協力して野球をするという実在の話でしたが、長谷川はそれを台湾全体に拡げようとしたのです。

「内台一如」を実行していく長谷川に対し、最初は

どうせ口だけだろ?

と白けていた本島人も「おや?」と思い始め、最後は協力することになります。これを「長谷川仁政」と言う人もいます。

このような、日本人・台湾人を分け隔てることをしない政策は、どこかで心の壁があった在台の日本人と台湾人を一つにすることになりました。

台湾で生まれ育った遠縁も、

  「娘時代だったから細かいことはわからないけど、(内地人の台湾人への)差別はあったと思う。父に『台湾の人を見下したりしてはいけない。台湾で生まれ育ったお前も”台湾人”なんだから』って小さい頃から言われたけど、逆に言えば日本人は見下していたということでしょ。
でも、戦争で内地人だ本島人だと言うことはなくなった。みんな一つになった」

このようなことを言っていた記憶があります。今になって考えると、遠縁が「みんな一つになった」と言っていた時代は、長谷川総督の時代とピッタリ重なるなと。

 

とある台湾史秘話

 

赤嵌樓台南

台南の有名な観光名所に、赤嵌樓(せっかんろう)という旧跡があります。今では市や市民によって大切に保存されていますが、日本統治時代は荒れ放題、崩壊の恐れありと近寄ることも禁止でした。
台湾住民は、歴史的な史跡をなんとか保存したいと望んでいたのですが、「非常時だ!」と国民総出でいきり立つ時代には、なかなか言い出せるものではありませんでした。

昭和17年、羽鳥又男という人物が台南市長に就任します。この人も、台湾に貢献した隠れた日本人。今でも台南の公式史に名前が出てきます。
羽島が就任後台南を視察した際、赤嵌樓の荒れ果てた姿を見て、修復を決意します。
しかし、やはり「この非常時に!」という声が殺到、ならばと長谷川総督に直訴します。
「台南市民のために、あれを修復しましょう!」

それに対する長谷川総督の答えは、

うん、やり給え

と快諾。修繕の支援金も出してくれることになりました。
総督のOKという葵の御紋を手に入れた市長は、反対派を抑え即実行。修繕の知らせを知った台南市民は大喜び。寄付の申し込みが殺到し、総督府からの支援が不要になりました。

赤嵌樓の保存は、その功労者として羽鳥の名前が今でも台南で語り継がれています。が、その陰には長谷川総督の姿がいたことは、台湾人もさすがにほとんど知らないと思います。

それどころか、Wikipediaには本件に関しこんなことが書かれています。

  赤崁楼の修復作業は1943年3月1日に始められ、1944年12月20日に完了した。総工費65,000円[2]。この修復作業は台湾総督府の支持を得られず、日本軍も作業を妨害したが(以下略引用:Wikipedia

本件とは真逆のことが書かれています。ソースをたどると郭江湖という台湾の人物の評伝に書かれていることとのことですが、本件は長谷川清の伝記に羽鳥本人が書き記しており、後述しますが家族にもこの話を伝えていました。
ソース元の郭江湖氏は『長谷川清傳』を見たのか。いや、偏見ですがおそらく無視したのでしょう。何故無視したのか、それはわかりませんが、台湾ではこの話が伝わっていないことは確かなようです。

何年か前、羽鳥の遺族が台南市に招かれ、遺族が頼清德台南市長(当時。2021年現在副総統)にその秘話を伝えたところ、頼市長は知らなかったと非常に驚いたそうです。
頼氏は台南市長として歴史建造物の修復や整備を進めたのですが(八田与一像がある地域を公園として整備し、観光客が行きやすくしたのもこの人の功績)、その人をして知らなかったとは、よほど知られていない、否、ある方面の人にとっては「知られたくない」秘話だったのだと私は推測しています。

ある台湾人は、長谷川総督をこう評価しています。

「今まで(の総督)は水を逆流させる人ばかりであったが、長谷川さんこそ、初めて水をまともに流す人だった」

昭和37年(1962)頃、長谷川は台湾総督時代の小回顧録を発表します。

  「台湾が日本統治を離れて早くも17年になる。その間に中国と世界の情勢が激変したために、台湾は内外ともに極めて厳しい情勢に直面しているが、私は親愛なる台湾人と高砂族諸君の幸福、台湾の向上と発展、日台人の親善友好を心から願っている

長谷川元総督の台湾への愛がこもったメッセージでした。

長谷川と台湾の縁は、台湾総督辞任と終戦で切れたかと思われましたが、彼が米寿を迎えた昭和45年(1970)、台湾から米寿を祝う祝電が次々と届き、直接お祝いを言いたいと台湾から多くの訪問者がやって来たという話が、『長谷川清傳』という彼の唯一の伝記に書かれています。

台湾総督としての顔は、これで終わり。
前述のとおり、長谷川は現役の海軍大将でもありましたが、お次は海軍軍人としての長谷川の人生を。

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