【第一章】上海の”日本租界”を歩く-先人たちの跡を訪ねて

上海の日本租界その他雑想
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序章-「日本租界」とは何か

戦前の中国上海

東洋でありながら西洋の街をコピペしたような華やかな表の世界と、スパイと秘密警察、アヘン商人が暗躍する裏の世界。光と闇が紙一重に混在するこの都市を、人は「魔都」と呼んでいた。

当時の上海は、海外の事実上の植民地であった「租界」と、中国でありながら西洋人から「チャイナタウン」と呼ばれていたそれ以外の土地に分かれていた。
「租界」とは金で異国の土地を買い、事実上の領土とした土地で、「植民地」「租借地」とはまた違うジャンルの土地所有である。日本史では、横浜や神戸などにあった「外国人居留地」が近いが、また少し違う。
中国には各都市に各国の租界があったが、それが都市によっては複雑に入り組み、中国の利害も絡んで中国カオス時代を演出する一つの舞台装置であった。

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コトバンク『租界』より)

上海は「租界都市」と言っていいほど、租界から始まり租界をベースに発展した都市であった。「租界」はイギリス・アメリカが共同で管理する「共同租界」と、フランスが単独で管理する「仏租界」に分かれていたが、共同租界の一角に、日本人が多く住んでいた「日本租界」と呼ばれていた区域があった。
結論から書くと、上海に日本の租界があった事実はない。私が「日本租界」とカギカッコをつけている理由がそれである。
「日本租界」と名前がついているんだから、上海には日本の租界もあったんだ~と思い込んでいる人も多数いるが、今回はそんな人のために「種明かし」をする。

上海日本租界
コトバンク『租界』より一部加工)

イギリス・アメリカ共同管理の「共同租界」のある地域に、日本人が固まって住んでいた。その数は、最盛期で10万人を越えたと言う。日本人は、「呉淞路」「北四川路」という大通り沿いやその周辺に固まり、そこで日本式に店を構え日本語が飛び交っていまた。そこがまるで「日本租界のようだ」となったことから、「日本租界」という別名で呼ばれるようになったというのが実情である。
おそらく戦後、上海というノスタルジーと共に、「日本租界」という言葉のイメージが独り歩きしたのだろう。

10数年前、私は仕事で上海に駐在していた。仕事の激務でプライベートはほぼなかったに等しが、それでも上海だからこそ出来る「旧日本租界を歩く」というライフワークがあった。
租界時代の建物が残る近代建築の見本市の上海を歩くと、自然にノスタルジーに浸ることができた。西洋風の建物の上流の威厳に中国風の下流の喧騒が混ざり合い、上海の独特の雰囲気を醸し出していた。

在りし日の上海を訪ねる時の必須本が、「上海歴史ガイドマップ」である。

租界時代の建物の位置等が地図上に書いてある本だが、地図が詳細で租界の足跡を調べるには絶好の本である。
今回は、この本をベースに、我々の先人たちが歩んだ跡を訪ねてみる。

キャセイ・ホテル(和平飯店)

上海和平飯店旧サッスーンハウス

外灘の入り口に、まるで東大寺の仁王像のようにそびえる和平飯店。1929年完成の、上海を象徴するシンボルの一つである。
もう数十回は見たので見飽きたかと思ったら、改めて見てみると彫刻がきめ細かい。建物から醸し出す威厳も、「魔都」時代の上海の建物の王様にふさわしい。

和平飯店は今更説明は不要とは思いますが、緑のとんがり帽子が特徴的な北楼は、別名「サッスーン・ハウス」と呼ばれていた。上海の大財閥であるユダヤ系イギリス人サッスーンが己の力を誇示するかのように、当時上海で一番高かった土地に建てられた。
5階から10階までは「キャセイ・ホテル」として営業、最上階はサッスーン本人の自宅兼事務所が置かれていた。

戦前、日本人にとって上海はパスポートなしで行ける、気軽かついちばん近いな外国であった。学生から社会人、そして事情で日本に住めなくなった社会主義者などの不穏分子まで、実に様々な人種を呑み込んだ、それが上海が「魔都」と呼ばれたゆえんである。
その人口は、最盛期には10万人以上だったと言われてる。が、これはあくまで登記をした人口であって、実際の人口は神のみぞ知るであった。
文化人を寄せ付ける魅力も兼ね備えていたらしく、芥川龍之介や金子光晴、谷崎潤一郎、連続テレビ小説「あぐり」で有名になった吉行エイスケ等も上海を訪れ、様々な場所に足跡を残している。

そこままさに日本そのままだったという。
彼らは日本語をしゃべり、日本式に改良された住宅に住み、和服を着ながら日本料理屋に足を運んでいた。正月になればおせち料理を食べ、凧を揚げ、盆には盆踊りもあったという。
そんな世界が日本の敗戦とともに無くなり、70年以上の月日が経過した。

実は四半世紀前に上海に留学していた時にも、「日本租界」の足跡を訪ねたことがある。そこには当時の建物が、まるで時が止まったかのように残っていた。特に四川北路は、昔の写真通りとあまりに変わっておらず、驚いた記憶がある。かつて日本人と一緒に汗を流したという中国人もたくさんおり、そこには確実に「日本」が残っていた。
彼らが持ち込んだ日本が、現在虹口地区には、もう部分的になってしまったが、かつての住人を静かに待ってるかのように残っていた。
しかしながら、その時私は二つの失敗を冒してしまった。一つは調べるための資料がほとんどなかったこと。もう一つは、写真をほとんど撮らなかったこと。せめて写真だけでも撮っておけばと思うと、今でも悔やまれる。

当時は近代史の化石のように残っていた建物も、中国の経済発展もあり、老朽化や道路の拡張などでどんどん壊されている。それは時代の流れなのである程度は仕方ない。が、せめて上海在住の先輩たちの足跡をデジタル永久保存版にしよう。この中国・上海の発展からして、5年後に残ってるという保証はどこにもないのだから。

租界の建物を負の遺産と言う人もいる。特に中国人にとっては、租界自体が彼らのプライドを傷つける歴史の事実であるかもしれない。が、ここに実際名もなき日本人が住んでいた証拠がここにあり、彼らは彼らなりに必死に生きてきた。これも歴史的事実である。それを負と決め付けてしまっては、彼らの人生、存在自体を否定することになる。

 ロシア領事館・旧礼査飯店北楼・元日本領事館

ロシア領事館と浦江飯店
(写真の前方の建物がロシア領事館、後ろが浦江飯店)

外灘を北へ進み、「外白渡橋(ガーデンブリッジ)」を通り、虹口地区に入る。
ガーデンブリッジを渡ると、左に「上海大廈」、右に今も昔も位置が変わっていないロシア領事館、そしてつい10年くらい前まではバックパッカーのたまり場でもあった「浦江飯店」が虹口地区の門番のようにそびえ、上海の歴史を何十年も見守ってきた。

虹口地区に入ると、何気に懐かしいような感じがした。流れている空気がどこか懐かしい。恐らく気のせいだろうが何か不思議な感覚がしたのである。
ガーデンブリッジを渡り終え、そのまま右に渡り、昔アメリカ領事館やドイツ領事館があった跡に建てられた海鴎飯店を通り過ぎると、何気にクリーム色の無機質な建物が見える。

上海の旧日本総領事館
今は「黄浦大楼」と名を変え、海軍招待所や上海銀行が入っているあまり存在感がない古ビルが、日本人の足跡第一弾である旧日本総領事館である。
「上海歴史ガイドマップ」によると、現存のものは1911年に建てられた2代目とのこと。その向かって左2軒目には、旧日本郵船会社の建物がそのまま残っている。
そして行き道を戻って浦江飯店の裏に回ってみると、そこには、もういつ壊れてもおかしくないマンションのような、古ぼけた赤い色の屋根を頂いた建物がある。

旧礼査飯店北楼、旧日本人将校クラブ、偕行社)
そこは旧礼査飯店(浦江飯店の前身)北楼。日中戦争中は日本軍によって接収され、日本陸軍の将校クラブである「偕行社」が開かれた場所である。

現在は金山大楼として普通のマンションになっているが、ここでも何か日本人との関わりが持てるとは。

第二章はこちら!

上海の歴史を知る書籍

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