【第ニ章】上海の”日本租界”を歩く-先人たちの跡を訪ねて

上海日本租界その他雑想

前章はこちら。

戦前は熙華路(Seward Road)と呼ばれ、現在は長治路と呼ばれる道路の周辺も、昔の建物がよく残り、租界時代の住宅地の名残をよく留めている。

上海の日本租界

すでに20年前になるが、バックパッカーとして放浪の旅を続けていた途上で浦江飯店に滞在し、この道は毎日のように通っていた。そのときから何年もの月日が経って改めて通ると、昔は宝の山を目の前にして宝の価値がわからない故に見逃していた。

長治路を何気に歩いていると、武昌路との角になにやら気になる建物が。

 

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大日本航空オフィス跡

上海の日本租界大日本航空オフィス跡

見事な赤レンガ造りだが、上海にはよくある洋風の建物であり特に目立つものではない。似たような建物は回りにけっこうあるのですが、どうも自分の直感が何かあるとしきりにサインを送っている。
「上海歴史ガイドマップ」を紐解いてみると、ここは大日本航空会社のオフィス跡ととのこと。

大日本航空会社とは何か。

大日本航空会社

大日本航空会社とは、日本と中国・満州の航空連絡の便宜をはかるため、日本航空輸送と満州航空の子会社である国際航空が、1939年(昭和14年)9月1日に合併し設立された会社である。国策会社ゆえに終戦で民間航空の就航が禁止され解体されたが、その種はのちの日系航空会社に引き継がれた。

 

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昭和15年(1940)当時の大日本航空会社の航空ルートによると、当時から上海までの定期便も飛んでいた。また、当時日本の委任統治領だったパラオや、タイのバンコクなどにも航路を伸ばし、将来的にはヨーロッパ(ドイツ)までの便も計画していたという。

日本ではほぼ失われた戦前の航空業界の一ページが、上海にははっきりと残っていたのである。

 

萬歳館-日本の文豪が愛した旅館

長治路をそのまままっすぐ北へ向かい、ミン(門構に文)行路を左に曲がると、
典型的な租界風建築と瓦屋根という、妙な組み合わせの建物が目の前にあらわれる。

 

上海の日本租界萬歳館跡

ここが「萬歳館(まんさいかん)の跡である。戦前は日本人の往来が多かったため、日本人が経営する日本風旅館が「日本租界」のあちこちにあったが、その中でも規模・格式ともに筆頭に挙げられていたのがここである。

萬歳館は、1904年に相川ツルという女性が創業した宿で、上海で一番有名な日本旅館でもあった。それだけあって、文化人もここによく利用していた。
芥川龍之介・佐藤春夫等もここを拠点に、上海ライフを楽しみ、特に芥川龍之介に至っては、3階に住んでいた頃にここのメイドに惚れてしまい、取材そっちのけでお熱を上げてしまったというほのぼのエピソードも残っている。
私が散策した頃は、1階が部分がレストランになっていた。瓦屋根は中国にしては妙に違和感があり、恐らく当時のものを流用しているのかもしれない。野良歴史家の希望論ではあるが、少なくともそう願いたい。

 

須藤医院

ミン行路と峨眉路との交差点を右に曲がると、右手に3階建ての赤レンガの立派な建物が見える。周りの建物が古ぼけた白い建物なので余計に目立つこの建物の以前の持ち主は…

 

そこはかつて、須藤五百三(いおぞう。1876-1959)という医師が1919年に開いた須藤医院の跡である。
須藤医師は『阿Q正伝』『狂人日記』等で有名な文学者の魯迅の主治医であり、晩年の彼の自宅まで往診に向かっていた。2階が診療室になっていたといい、ここに医院を開くということは、周りの住人に日本人が多かったと容易に推測できる。
そう思うと、何か在りし日の先人たちの息吹がまだかすかに残っている気がした。上海に留学していた四半世紀前は、ここあたりだったと思うが、かつてお隣さんが日本人だったという中国人が住んでおり、日本語もそこそこ話すことができ、良好なご近所付き合いをしていたと述べていた。

『上海ガイドブック』によると、魯迅の日記には須藤医師の名前が150回以上も出てくるという。

面白いことに、須藤医師魯迅暗殺説なるものがある。
これは魯迅の息子が著書の中で言い出した新説だが、根拠は「(彼が)1961年に来日した時に彼が来なかった」とのこと。しかし、須藤医師は1959年に亡くなっており、1959年に亡くなった人が1961年に会いに行けるかよと本にツッコミを入れたことがある。
それ以前に、須藤医師が魯迅を殺す動機が全くない。日本の特務の指示があったなどと言いたいのだろうが、それはネットで流れる時系列無視の陰謀説と何ら変わりはない。ただの勘違いか、根拠のない妄想だろう。

この近辺に住んでいた日本人の一人に、林京子(1930-2017)という作家がいた。彼女は父親の仕事の都合で1931年~1945年の少女時代を上海で過ごし、上海の思い出を『ミッシェルの口紅』『上海』などの小説に記している。

彼女の家は、この須藤医院のすぐ近くであった。この作品は、上海で日本人と中国人が共存して暮らしていた平和のひとときから、戦争で不穏な時代になる流れを、少女の目を通して語っている。一人の少女の目線から見た上海や中国の近代史は、また違った視点で歴史を見ることができる。

その中で、魯迅の話を聴いている。その話を聞き、作者も幼い時に同じ須藤医師に診てもらったことがあることを思い出したという。

 幻の「虹口マーケット」

須藤医院跡をそのまままっすぐ行くと、次の交差点の右手に、ツタで囲まれた校舎のようなものが見える。
校舎には「虹橋区第一中心小学」と書いてあるが、このツタの校舎といい、何かありそう。そんな嗅覚が働きまたガイドブックを開いてみると、元々は漢壁礼蒙女堂(Thomas Hanbury School for Girls)という学校であった。
ここは不動産商のハンベリー氏の寄付によって、欧亜混血児のために作られた小学校を起源とし、戦争中は日本領事館警察となったところでもある。

その隣には、虹口マーケットの跡がある。
虹口マーケットはその形から「三角マーケット」とも呼ばれた公設マーケットで、戦前の上海を語ると必ずと言ってもいいほど出てくる伝説の市場である。何故伝説なのか。それは租界という性質から世界中の品物が集められ、日本から来た者を驚かせたインターナショナルな市場だったからである。

 

上海虹口マーケット(三角マーケット)
上海の虹口マーケット(三角地菜場)
(当時の虹口マーケットの写真)

上海日本租界、虹口マーケット跡の位置地図

戦後もそのままの形で市場として使われていたが、1990年代前半ついに取り壊しになり、現在はビルが建っている。道沿いに残る三角の形だけが面影を残している。
私が上海に留学していた1994年にここを訪ねた時、伝説の三角マーケットは確かにここに存在していた。写真のとおり当時のままの姿で、まだ現役の市場として活動していた。だが、現在は残念ながら全く残っていない。ここだけは一枚でも写真に撮っておけばよかった…と今でも悔やんでいる。
ある意味いちばん取り壊して欲しくなかった建物だったのだが、既に瓦礫の山、否ビルになっているので今更嘆いても仕方ない。

租界警察日本人宿舎

上海日本租界の租界警察日本人宿舎

公安大楼-元租界警察日本人宿舎

虹口マーケットとは対称的に、全く姿が変わっていない建物が虹口マーケット跡の道の対面にそびえている。租界警察の日本人宿舎です。
大阪の丸ビルを小さくしたような形の建物は鉄筋コンクリート8階建て、1931年に建てられた。当時最新鋭だったエレベーターを完備し、日本人巡査の家族が住みこんでいた。現在でも、上海の警察宿舎「公安大楼」として現役である。

今でこそ8階建ての建物は珍しくはない。が、当時の国際都市上海でも8階建てのビルはまれであり、竣工当時はものすごい異様を誇った建物だったのだろう。

 

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