2020年台湾総統選が蔡英文総統の圧勝で終わり、熱気がようやく冷めてきたころ、一人の老婦人がひっそりと息を引き取った。
享年97歳1。彼女は家族とともに総統・立法院選挙の投票を終え、「台湾の勝ち」を見届けた後、これで自分の役目は終えたが如く後生に故郷の命運を託し、この世から去っていった。
彼女の名は王陳仙槎、名前を聞いてこの人だと思いつく人は、日本人では専門家以外まず皆無だと思う。当然ながら私もその一人であった。
しかし、「王育霖の未亡人」となると話は別である。表現はいささか不謹慎だが、まだ生きてたのかという驚きが正直であった。
王育霖という名は、台湾ではおそらくほとんどの人が知っている、台湾史における有名どころだと感じる。そして、台湾史最大級の悲運の人でもある。
が、日本人の間では彼の名を知っている人は、やはり専門家以外知る人はいないと思う。その証拠に、彼の事について書かれた説明が、日本語ではほとんどないのである。
今年も二二八事件の日が近づいてきた王育霖。今回はの人生を通して、台湾史を振り返ってみたいと思う。
王育霖とは
彼は1919年(大正8)、日本統治下の台湾・台南で生を受けた。
成績優秀で台北高等学校尋常科を経て高等科へ進学する。
旧制高校は合格したら大学まで無試験という超エリートで、上のように新聞に合格者が載るほどの栄誉であった。
当時、台湾人が台北高校尋常科に入学するのは至難の業。毎年定員の3~5名が「見えない台湾人枠」となっていた。事実上の競争率は4~50倍。
これは明らかな「見えない進学差別」であった。が、そのハンデをはね除け、
「俺たち(台湾人)だってやれば出来るのだ!」
という気概を、王だけでなく台北高校に進学した学生は一人残らず持っていたに違いない。
王育霖の台北高校の後輩にあたる李登輝も述べている。
『新・台湾の主張』
「日本人は台湾人のことを少々見くびるところがあった。私自身、そういう場面に何度も遭遇した。高校生の頃母を台北の百貨店に案内した時は、わざと台高の制服を着て『台湾人の俺だってやればこれくらいできるんだ!』という矜持を表したこともあった」
台北高等学校をトップクラスの成績で卒業した王は、東京帝国大学法学部へ進学する。
「旧制高校生は無試験で大学」と説明したが、東大は別問題。希望者が全国から殺到するため、特に志願者が多い法学部や医学部などは「入試」が存在した。王はそれすら突破したのである。
ちなみに、弟の王育徳は東大経済学部の試験に落第し、「白線浪人」と呼ばれた、制度上ではあり得ない(というか、存在してはいけない)「旧制高校生の浪人」を経験してしまう。
在学中に故郷台南で、のちに妻となる陳仙槎と出会った。東京の洋裁学校に通っていた彼女とはすぐに意気投合し、結婚する。
その後1943年(昭和18年)に高等文官試験、いわゆる「高文」に合格。台湾人初の検察官として京都へ赴任する。その後、1944年(昭和19)に長男克雄が生まれるが、東京生まれとあるのでその時には東京に転勤していたのかもしれない。
歴史というものは面白いものである。
京都へ赴任中の王のもとへ、同郷のよしみとのことで腹を空かせた一人の京大生が訪れ、飯をごちそうになっては帰っていったという。
背が高く筋肉質、非常に発達した顎が特徴的なその学生の名は、数奇な運命ののち数十年後に台湾の総統として矢面に立つ。彼の名は李登輝。
妻である王陳仙槎はその場にいたはずなので、1990年代の彼の姿に、
「あのよくご飯を食べに来た学生さんが総統に…偉くなっちゃって」
という母親のような気分だったかもしれない。
また、王育霖には育徳という弟がいた。彼も台湾史においてキーパーソンとなるので後々詳しく書きたいが、今回は省略する。育徳も兄の跡を追い台北高校を卒業後東大2へ進むのだが、面識がなかった王育徳と李登輝の最初の出会いの挨拶は、
「京大時代、お兄さんによく飯をごちそうになりまして」
だった。
ここまでは、日本時代の台湾人の出世頭として順調な、そして当時の東大卒エリートの普通の人生であった。しかし…
そして戦後
終戦後、「日本人」から「中国人」になった王は、1946年(昭和21)1月に台湾へ戻る。
新竹市の検察官となった王は、台湾にやって来た中国人の腐敗ぶりを目の当たりにする。日本人が去ったら今度は中国人。支配者が変わっただけで台湾は何も変わらない。いや、まだ日本時代は清廉さがあった。中国人の振るまいはそれとは程遠く、検察官となったほどだから正義感は人一倍強かったのだろう、王は彼らの不正を暴こうとするが、中国人の老獪さの方が上であった。
新竹市長の郭紹宗少将の汚職事件、通称「救済粉ミルク」汚職の捜査に手を付けるが、中国人のあの手この手の邪魔が入り、憤慨した王は職を辞し、民に下り中学校教師や新聞社の法律顧問に就く。が、故郷台湾が中国人によって食い荒らされる姿に、ますます憤りを感じることとなる。
そして運命の日、2月28日を迎える。
二・二八事件
1947年2月28日、官憲による闇タバコ売りの婦人への暴力から始まった抗議運動は、終戦後からの溜まりに溜まった台湾人の怒りに一気に火がつき、それが台湾中に広まった。それが二・二八事件。この「事件」…否、「台湾大虐殺」と言っても良い台湾史最大の闇を詳しく語るのは後にする。
事件当時、王育霖は胃の病により台北市の旧大正町七条通り、現在の中山北路の自宅で療養していた。中国人による「台湾大虐殺」の嵐が台湾中に吹き荒れていたさなかの3月14日午後3時過ぎ、憲兵隊と思われる中国服の男たちが彼の家を訪れ、
「王育霖か」
と訪ねた。王は回答を拒絶したが、着ていたスーツの裏地に刺繍された名前を確認するなり手錠をかけられ、軍用車に乗せられたままどこかへ連行された。
それ以後、彼は行方不明となる。この時まだ28歳。
妻の王陳仙槎はあの手この手で夫の消息を聞き出そうとするが、全くなしのつぶてであった。夫からの連絡も全くなく。そのまま月日だけがむなしく過ぎた。
弟の育徳はある日、夢枕に兄が出てきたという。
その兄は頭にいくつもの孔が開き、上着のシャツは血で染まって見るに堪えない姿だった。が、彼は笑顔で育徳に声をかけた。
「育徳よ、あとは頼んだ」
兄の姿が夢に出てきたのは、これが最初で最後だったという。
のちに育霖の行方がわかった。家族も覚悟していただろうが、彼は連行された後すぐに銃殺され、遺体は淡水河に遺棄された。彼が何の罪状で捕まったのか、そして彼の遺体はどこへ行ったのか。
育霖の遺体は、いまでに見つかっていない。
二・二八事件とは何か。一言では説明ができない。それほど台湾人や台湾史の中に深く刻まれた溝である。
が、これだけは言えよう。育霖のような高い教育を受け、将来の台湾を担う数え切れない人材が、虫を潰すように殺されていったと。その数は、数千人とも数万人とも言われているが、いまだはっきりとした数はわかっていない。事件から70年経とうとした2016年の総統選挙、蔡英文総統候補(当時)が「未公開の二・二八事件の資料を公開する」を公約の一つに掲げていたことだけでも、この事件の谷の深さがわかるであろう。
王陳仙槎は夫の死後、故郷の台南へ帰った。そして再婚することなく、戦後に台湾で生まれた次男を含め二人の子供を女手一つで育てた。
長男の克雄は台南の中高を卒業し台湾大学工学部へと進学、のちに「恐怖からの自由」を得るためアメリカへと向かった。
弟の王育徳は二二八事件により、友人の邱永漢の助けで夜の闇に隠れて台湾を離れ、香港経由で日本へ亡命する。日本で台湾語研究の傍ら台湾独立運動の旗手となり、生涯を台湾独立(台湾國(仮称)の建国)に費やした。育徳にとって、台湾独立運動は兄への弔い合戦だったに違いない。