サカリバと台南遊郭
日本がかつて公に売春営業が許されていた。国(実際は警察)が売春を許したエリアを遊廓と言い、エリア内で売春営業が許可されていた。
外地の台湾でも同様に管理売春が許されており、台南もその例外ではなかった。
ちなみに、いわゆる妓楼、正式には貸座敷、を遊郭と呼ぶ者がいるが、それは明らかな用法間違い。遊郭はあくまで「エリア」のことで、「廓」の意味が「四方を壁などで囲った区域」と知っていれば、このような間違いをすることはない。画像はアップしないが、あの『鬼滅の刃 遊郭編』ですら認識が間違っているのである。
台南の売春は日本統治時代前から行われており、台南では遊女を指す「城邊貨」という言葉があった。これは台南府城(「城」は城壁に囲まれた市街地という意味)の城壁周りにそういう店があったということで、特に大西門(現在の民権路二段と西門路二段の交差点)の城外周辺に茶館、つまり売春宿が多かったという。
そして日本統治時代、1907年に台南での貸座敷営業が許可され、日本の制度における遊郭制度が始まった。
最初は清代の私娼窟(大西門外)をそのまま遊郭としたのだが、市街地にあって風紀上良くないと、1922年(大正11)にさらに西部の「新町」に移転された。
1930年(昭和5)刊行の『全国遊廓案内』によると、貸座敷(妓楼)の数は14軒、娼妓(女郎)数110人と、内地を含めてもそこそこの規模である。芸妓も70人おり、単なる売春窟ではなく花街も兼ねた「総合歓楽街」だったことがわかる。
なお、昭和初期の日本の遊郭「ビッグ4」は以下のとおり。遊郭史を知らないと、数字的な日本一の遊郭は吉原ではなく、「近代遊郭三冠王」こと大阪の松島(ただし、現在の松島新地とは場所が少し違う)だったということに驚くと思う。
それに比べると、台南は蛍光灯の下に灯るマッチの火のようなものだが、それでも台湾では台北に次ぐ大きい方である。
ちなみに、『全国遊廓案内』によると台北の遊郭は娼妓が500人とあり、全国的にも上位30%に入る規模となる。
この台南遊廓の大きな特徴は、本島人用の妓楼があったということである。台北など、他の遊廓の娼妓は主に内地人や朝鮮人であり、本島人の娼妓は基本的に存在しなかった。実際は遊郭ではなく、モグリ売春としての私娼に流れていたようだが、これは本当に闇であり実態をつかむのはほぼ不可能である。
が、その唯一の例外がここ台南。
遊廓と盛り場は切っても切れない関係にある。いや、「付属品」である。
遊廓が日本からなくなった今、盛り場との関係を物語るものはほとんどなくなったのだが、日本で唯一その雰囲気を残している場所が存在する。
それは…
大阪の飛田新地である。
飛田新地周辺には、カラオケ店も兼ねた飲み屋が多数存在する。あの歴史をたどると遊廓への遊客が登楼前、または後に一杯引っかけるための場所であった。また、飛田が遊廓として大手を振って歩いていた頃、色街への客の「おこぼれ」を頂戴するモグリの売春窟という顔もあった。
遊郭には「前線基地」としての盛り場がセットメニューのようについていることが多く、例えば吉原遊郭の盛り場は伝統的に浅草がその役割を担っていた。
飛田の規模はかなり大きく、まるで巨大惑星を公転する衛星のような関係。現在は中国人やベトナム人が経営するカラオケスナックに変わっているが、もともとあそこにあるのは、遊郭の遊客が一杯かけていくための飲み屋だったのである。
台南遊廓と沙卡里巴との位置関係を示すと、このようになる。
現在の道を私本人がその足で歩いてみても、信号待ちを含めてもその距離は徒歩6~7分程度。
沙卡里巴も、おそらくは遊廓へ向かう客の腹ごしらえ、一杯駆けつけで酒を入れ、理性をある程度麻痺させるための「最前線基地」として栄えたのは、地理的要件からして間違いないと思う。
台南遊廓も、日本統治の終わりとともに終焉を迎えたが、実はそのまま「特種酒場」という名の売春窟が営業されていた。
沙卡里巴も「特種な遊び場」の前線基地として引き続き隆盛を誇ったわけだが、「特種酒場」の衰退と共に沙卡里巴も勢いが衰えていったと推察される。
かつての「盛り場」が、「沙卡里巴」として台南に同化し、現在も盛り場として機能しているその姿には、かつてここで飲み食いしたのだろう日本人の足あとの歴史を感じないわけにはいかない。