(首相官邸HPより)
2021年10月4日、臨時国会にて岸田文雄氏が総理大臣に選ばれた。
日本の内閣制度が始まって130年近く、ついに第100代という記念すべきキリ番に岸田氏が就任した。
岸田氏と台湾とのつながり!?
海の向こうの台湾でも総裁選が気になる様子で、マスコミもしきりに報道していたのだが、その中で一つ、気になる記事があった。
「日本の新首相の曾祖父が基隆で『岸田呉服店』を開いていた」
このニュースが流れた時は、まだ自民党の総裁になったばかり。「首相」は少し早とちりだが、岸田氏の曾祖父が台湾とかかわりがあったというニュースだ。
このニュースに、基隆市長の林右昌氏も早速Facebookで反応するや、全盛期の勢いはないとは言え世界有数のFacebook帝国である台湾の間を駆け巡った。
台湾はかつて日本領だった歴史上日本と縁が深く、かつ安全保障上での運命共同体という意識が強い。それを日本人は「親日」という一言で片付けているが、根はもっと深いものがある。
それ故、将来の首相となるのは確実の岸田氏が台湾と縁があった…という情報は、砂漠のオアシスに湧く泉のようなものだろう。
岸田文雄氏の曾祖父にあたる岸田幾太郎(1867-1908)は、時代が江戸から明治になる寸前に、広島県に生を受けた。以下、彼の名を幾太郎とする。
明治28年(1895)、日清戦争で台湾が割譲されたその年に、幾太郎は台湾へ渡った。
まだ海とも山ともわからない台湾、そして基隆へ。かなりのチャレンジャーだったと思われる。
今でこそ基隆は、台湾北部の要港であり、世界中からコンテナ船が行き交う貿易都市である。が、基隆が今の基隆になるのは台湾史最強のコンビと謳われる児玉源太郎・後藤新平の開発から。当時は水深が浅く港としては使い物にならない寒村にすぎなかった。
そんな時に、海のものとも山のものともつかぬ基隆に拠点を置いた幾太郎の着眼点や如何。
ちなみに、基隆は「きーるん」と読む。客家語がそのまま地名として呼ばれたものだが、気を遣って「きりゅう」と呼ぶ人がいるが間違いである。
昔から基隆は「きーるん」と読まれていたのだから。
幾太郎は基隆で木材業を開く傍ら、「岸田呉服店」という呉服屋を開いた。これが後に台湾に生き残ることになる。
幾太郎は、弟たちを台湾に呼び寄せ稼業に就かせていたようだが、その一人に岸田多一郎という人物がいた。どういう人物だったのかはわからない。
幾太郎は1899年(明治32)に台湾を離れるが、その9年後に死去する。41年と短い命だった上に在台湾の期間も短い。ただの推論だが、当時は「瘴癘の地」と呼ばれた台湾でマラリアにでも罹り、止むなく離台してしまったのかもしれない。
弟の多一郎や他の弟は引き続き台湾に残った。おそらく幾太郎の事業を引き継いだと思われるが、幾太郎が4年しか基隆にいなかった以上、弟が「岸田呉服店」の実質的な経営者であろう。
岸田呉服店は義重町にあった。義重町は「基隆銀座」と呼ばれた基隆一の繁華街、数々の商店が建ち並ぶ一等地にあった。
「基隆銀座」を写した絵葉書にも、「基隆の心臓」と称されている。
この絵葉書の右側に、○にキと書かれた暖簾が写る洋館がある。ここが岸田呉服店である。「岸田呉服店」の文字も見える。絵葉書の題材になるほどの一等地に、この呉服店はあったのだろう。
ここまででわかるように、新聞記事にあった「岸田新首相の曾祖父」とは少し語弊がある。曾祖父にあたる幾太郎が台湾へ渡って事業を行ったのは確かだが、岸田呉服店は実質弟の多一郎、つまり文雄新首相から見ると曾祖叔父の店なのである。
上の地図にあるように、岸田呉服店は隣に「喫茶部」を開いた。恐らく現在の喫茶店だったのだろう。
多一郎は台湾に残り事業を興し、1922年(大正11)に刊行された台湾の名士録『南國之人士』にも記載がある。
多一郎は台湾東部、特に花蓮の開発にも少なからず寄与した間接的な証拠が、『官報』など公文書に残されていた。
(Twitterのフォロワー様提供)
1914年(大正3)の公文書には、花蓮の公学校に風琴(オルガン)を寄付した人のひとりとして、「岸田多一郎」の名前がある。同姓同名の可能性もあったが、「広島県加茂郡」とあるので多一郎に間違いない。
また、こんな面白い資料が台湾の歴史データベースに眠っていた。
昭和10年(1935)6月24日の判がある基隆市の公文書なのだが、内容は浜町にある「岸田食堂」の支店屋上に、お酒の白雪のネオンサイン設置許可を求める請願があり、それを決議・許可したものである。
資料には「完成予想図」のイラストも添えられているのだが、そこにははっきり「岸田食堂」と書かれている。
「岸田食堂」と岸田呉服店に関係はあるのか。上に挙げた1929年の地図に記載の「喫茶部」は、文献によっては「岸田食堂」とある。基隆市公文書には浜町のは支店とあり、本店はおそらく「喫茶部」こと「岸田食堂本店」のことだろうと筆者は推測している。
浜町とは基隆市街地から北東の郊外にあり、現在も基隆を拠点にする漁船が集まる漁港である。現在は「正濱漁港」という名前に変わっているが、「浜(濱)」は変わっていない。
(2018年筆者撮影)
外国人はまず行く用事がないローカルな漁港なのだが、そこには日本時代当時の建物が残っている。
現在は「漁會正濱大樓」という名前だが、日本統治時代の名称は「水産館」…そう、ネオンサイン設置請願があったその建物である。本建物の落成は、届け出の日付の昭和10年。
私が本建物を訪ねた時は改修中で中に入ることができず、外から眺めるだけだったのだが、この建物の中に「岸田食堂」の支店があったと知れば、これは行かずにはいられない。しかし、偶然とは言えよくここを訪れ、写真を撮っておいたものだ。
しかし、基隆で羽振りをきかせた名士だったはずの岸田だが、1930年代後半の台湾の名士を写真付きで紹介した『台湾人士録』(1937年刊)には多一郎や彼の息子どころか、岸田姓の人物すら登録されていない。
約40年間台湾に根付いた内地人なら掲載されていて当然の名士のはずだが、掲載されていないのが不思議である。未掲載の理由はわからない。今後の歴史家の調査の結果を待ちたい。
「岸田呉服店」は現在
岸田呉服店があった場所は、現在の基隆市内の赤い星をつけた場所にあたる。
(Google mapストリートビューより)
「岸田呉服店」跡は現在、イタリアレストランとなっている。
「岸田喫茶部」は中国人による「小上海小酒館」酒場となったが1951年には閉業、その後は陳某が1963年に購入、「自立書店」という本屋に。そして現在に至っている。
絵葉書の「岸田呉服店」の奥にある建物と、若干形は変わっているものの、これは当時の姿を色濃く残している。奇跡的なことに、リフォームはされて形は変わっているものの、当時の建物が残っている。
「岸田呉服店」と「喫茶部」の建物は、基隆市の歴史的建造物に指定されている。が、岸田氏が首相となることで、ここが日台関係史の1ページを飾る箔がつくことに違いない。
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