ここに、こんな投稿がある。
耿宝昌:1922年北京生まれ。文化財鑑定専門家、故宮博物院研究員。
1922年に生まれた耿宝昌という人物が、日中戦争の間に日本軍によって占領された北京の故宮博物院がどうなっていたのか、それを説明した文が話題となっている。
中国語なので日本語クラスタではあまり話題になっていないが、内容はかなり興味深い。日本語にも残しておくべきものであると判断し、ここに翻訳したものを記す。
結論から述べると、日本軍などによる略奪などはほぼ起こらず、博物院の運営にも支障はなかったということ。
これはかなり重要な証言である。
以下、原文を翻訳したものを記す。
この故宮博物院の会議で、私は以前からずっと気になっていたものの、資料不足のため解明できなかったことを解明した。
それは、日本軍が北京を占領していた8年間に故宮博物院で何が起こったのかということである。
少なくとも建物は焼かれなかったが、略奪はあったのだろうか?実際のところ、故宮では何も起こらず、秩序正しく運営されていた。
故宮博物院の国宝が北から南(北京から南京)へ移されたとき、最も優れたものだけが移されたものの、全てが移されたわけではない。数が多すぎたためである。
それでも残っているのは、金銀で満たされた財宝の数々だった。
が、日本人は紫禁城を略奪しなかった。
どころか、1942年にはこれまで完了していなかった紫禁城の文化財の主要な目録作成が完了することもできた。
略奪行為が初めて正確に記録されたのは1944年のことである。
戦争が最終段階に入り、日本が困難な状況に陥ったため、(大躍進政策で鉄鋼を製造していたときのように)「銅の供出運動」を開始したときであった。
このとき、彼らは紫禁城から大銅器66個、銅灯亭91個、銅砲4門を強制的に供出したが、そのほとんどは銘文が書かれたものではなく、歴史的には無価値なものを選んで奪ったということだ。
これは本当に驚くべきことである。
さらに驚くべきことは、故宮の多くの文化財が南京に疎開した(1931年の9月18日事件(=満洲事変)後に北京から南京に運ばれた)にもかかわらず、すべて無事であったことだ。
最も重要なのは、故宮の人々によって「二十五の宝物」と呼ばれている25の皇帝の印章であり、それらはすべて何一つ欠けることなく保存されていた。さらに、日本軍の南京占領時代、「二十五の宝物」は展示されており、(日本軍によって)持ち去られることはなかった。
私は帝国主義者が侵略の責任なしと論ずるわけではない。
ただ私は真実の歴史を現実的に伝えるためにそう言っているだけであり、感情論で歴史を論じ、捏造してはならない。
紫禁城は、日本軍が北京を占領した時だけでなく、(義和団の乱による)八カ国連合軍が北京を占領した時も略奪も焼き払われなかった1。
ただ一つ言えるのは、英仏連合軍が旧頤和園を攻撃したとき、正直に言えば、それは我々自身の責任でもあったということである。
彼らは交渉のために外交使節団を派遣した。が、私たちは外交団を拘束し、犯罪者も同然の対応を行った。
39人の外交官とジャーナリストは拘束され、食べ物も水もないまま体中が糞尿まみれで、傷口は化膿しウジがわく中で太陽にさらされていた… このような非人道的な拷問を人々が心の底から憎まないでいられるでしょうか。
敵は門の前に立ち、人質を引き渡すよう要求した。39 人の人質のうち、生き残ったのは 18 人だけで、21 人は拷問死した (殺されたわけではない)。
犠牲者の一人であるタイムズ紙の記者は、遺体をバラバラに切り刻まれまれた。このようなことが起きているのに、なぜ人々は中国人を野蛮な民族だと見ないのか。少しでも文明人なら、このような(むごい)行為は行わないだろう。
曽国藩は、このような惨事を引き起こした欽差大臣、セルゲンチンに責任がある、責任を取って自害すべきと主張した。
数多くの歴史の書物は、甘い論調でセンゲリンチンを称賛している。無教養な野蛮人にしかこんなことはできないのに我々はその行為を賞賛すらしている。
外交交渉に携わる知識人を捕らえることにはえらく熱心だったこのセンゲリンチンだが、北京市郊外でイギリスとフランスの連合軍と遭遇すると、たちまち倒れて四方八方に逃げ去ったのだ!これが歴史的事実である。
こんな人物を、まだ英雄と呼ぶ人もいるのである!
中国には武侠小説愛好家が多いのだが、その中にある精神、つまり「任侠」の基本的な精神をこれっぽっちも理解していない。嘆かわしいことだ。
最後に、耿宝昌氏はこの言葉で文を締めている。
「帝国主義をへの憎しみだけで話をでっち上げるな!」
現在の中国の空気として、この発言を行うのは非常に勇気の要ることである。実生活に影響を与えるどころか、「精神異常者」として病院に放り込まれる可能性すらある。それはイコール、生命の危険でもある。年齢も90歳を超え人生の終わりも感じているのだろう、「冥土の土産」に事実を語っておくべきだと、歴史家として現在のイデオロギーにまみれた捏造の歴史に一言言いたいのであろう。
私も一人の歴史家として、耿氏の歴史家としての誇りと、歴史への真摯な態度に敬意を表する。
最後に、翻訳文のみを載せるのもアンフェアなのと同時に、元投稿が何らかの原因で消された時の対策に原文とそのスクショを保管する。
もし翻訳文に相違があれば、筆者のXアカウントで良いので、お知らせ願いたい。
这次故宫会议上我还搞清楚了一个我过去一直关注,但苦于没有材料而一直没搞清的一件事
——日本人占领北京八年,故宫里发生了什么事情?至少建筑没有被烧,但是是否发生了抢劫?
实际情况是故宫里没有发生什么事,而且管理得井井有条。
故宫国宝南迁是选择了精品迁走,并没有全部迁走,因为太多。留下来的 也仍然可以说是满地金银。 但是日本人确实没有抢劫故宫。
而且1942年还完成了过去一直未完成的故宫文物大清点。
准确记载的抢夺是在1944年,战争进入最后阶段了,日本比较艰难了,发起“献铜运动”(像我们大炼钢铁的时候一样)。
这时就强行抢夺了故宫中66口大铜缸、91具铜灯亭、4尊铜炮,而且抢夺的铜缸还是“无款识”的。这真是让人惊奇。
而且更让人惊奇的是,还有很多故宫文物沦陷在了南京(1931年9.18事变后就从北京运到了南京),也都安然无恙。
其中最重要的,被故宫人称为“二十五宝”的25枚皇帝御玺,也都得到完好保存。而且日本人占领南京期间还曾把“二十五宝”拿出来展览过,但他们并未拿走。
我无意为帝国主义侵略开脱责任,说这些只是想要实事求是地说出真正的历史,不要带着感情去编造历史。
不仅日本人占领北京,当年八国联军占领北京的时候,故宫也没有被抢被烧。唯独当年英法联军对圆明园下手,说实话那也是我们中国人自己惹的祸。人家派出外交使团来谈判,我们却把他们抓起来当犯人一样折磨,甚至比犯人都不如。39个外交官和记者,被捆起来放在太阳下暴晒,不给吃不给喝,屎尿都在身上,伤口化脓生了蛆……
这样的非人折磨怎不让人恨到骨子里。人家兵临城下要你交人,39个人质交出来只剩下18个,21人被活活折磨致死(不是杀死),其中一个《泰晤士报》记者,交出来的尸体被砍成了七八大块。
发生这样的事,人家怎么不把你中国人当野蛮民族看?稍有文明水平的人也不会干出这种事来。
曾国藩都说僧帅(僧格林沁)惹出这种祸来,应该自裁谢罪。而我们很多书中还以歌颂的口吻赞扬僧格林沁。这种事只有缺教养的野蛮民族才干得出来,而我们却报以歌颂赞扬。
就是这个僧格林沁,抓人家外交谈判的文人那么轻松那么起劲,而在北京城外真正遇到英法联军却一触即溃作鸟兽散!这种人还有人把他称作英雄!
亏得我们中国还有那么多人喜欢读武侠书,连最基本的武侠精神都不懂!

图:耿宝昌:1922年生于北京。文物鉴定专家,故宫博物馆研究员。 —耿宝昌:不要为了仇视帝国主义而胡编乱造!

