台北高等学校の卒業生たち
台高が存在したのは20年余、その歴史は決して長くはない。が、自由な雰囲気と日本人と台湾人が切磋琢磨し様々な人材を排出した。また、総督府もかなり気合を入れたのか、帝国大学卒の教授を多数採用し、ハイレベルな教育を受けられるよう配慮した。
本編に出てくる卒業生は後日、「台湾史人物事典」で採り上げる予定なので、紹介は簡単なものにとどめる。
鹿野忠雄
鹿野(かの)忠雄(1906-1945?)
日本での知名度は低い。が、八田與一ほどの知名度はないものの、台湾を愛し台湾の自然科学に貢献した人物として台湾史に名前が刻まれている。
彼の台高在籍時の写真だが、このオールバックの髪型は、のちに鹿野のトレードマークとなる。
高校には入ったものの授業にはほとんど出席せず、内地では見たことがない生き物や植物を求め、毎日台湾の山野を駆け巡っていた。同級生からも「昆虫気狂い」と言われ尊敬半分呆れ半分で見られていたとか。
成績も最下位クラスで最後は校長のお情けでなんとか卒業後、東京帝国大学理学部に進学。内地へ帰還した後も度々台湾へ戻っては台湾の研究に没頭した。
名前を残すほど鹿野の名前が台湾で重要視されているのは、台湾の生物学・地理学・人類学・考古学など、当時誰も手を付けなかった台湾に関するアカデミックな研究、いわば「総合台湾学(理系)」の基礎を築いた人だから。
李登輝
説明不要だろう。
政治記者からは、総統を退いて17年経っても「ゾントン(総統)」と呼ばれているようで、名実ともに台湾の「THE 総統 OF THE 総統」扱いとなっている。こう書くと、宇宙戦艦ヤマトのデスラー総統のイメージになってしまいそうだが。
本人は
「台北高校に入って勉学に励み、急に世界が開けた」
と述べている。
李は高校に入ったものの、「死ぬとは何なのか」の答えが見つからず、悶々とした日々だったという。
そんなある日、台湾総督府付の製糖技師だった新渡戸稲造の講義録を図書館で見つけた。高校生の李青年は講義録を読み感動し、新渡戸稲造と同じく農業の道へ進もうと決意した。「豚肉のことを語らせたら台湾で私の右に出る者はいないよ(笑)」という農業学者への第一歩は、台北高等学校での思索の日々が原点だったのである。
「日本人は台湾人のことを少々見くびるところがあった。私自身、そういう場面に何度も遭遇した。高校生の頃母を台北の百貨店に案内した時は、わざと台高の制服を着て『台湾人の俺だってやればこれくらいできるんだ!』という矜持を表したこともあった。しかし、台高の中では差別など一切なかった。級友たちも表立って私たちにおかしなことを言う人は皆無だった」
(『新・台湾の主張』)「高等学校では他ではできない勉強ができたように思う。自由な校風の中、級友たちと議論を楽しみ、大いに読書をした。自分の内面と向き合い、自分の心を客観的に取り出す。それは、その後のボクの人生の糧になるような『人間を作り上げる』最初の時間だったんだ。先生方も一流ぞろいだったしね」
(台高90周年記念でのコメント)
徐慶鐘
徐慶鐘(1907-1996)は、日本では全く知られていない。が、台湾では大陸から来た外省人に牛耳られていた政治の世界に、台湾人が入り込む穴を作った人物として台湾政治史の中に名が刻まれている。
専門は農業政策で元々は学者。李登輝の台湾大学での指導教官であり、国民党にマークされていた彼を庇い、後に蒋経国に紹介したと言われている。
ちなみに、彼は台高の第一期生であり、のちに作られる台北帝国大学の一期生でもある。
邱永漢
邱永漢(1924-2012)は外国人初の直木賞作家で、日本、台湾、香港、そして中国を股にかけた実業家でもあった。「台北の黄金虫」として阿川弘之のエッセイにも時々出てくる。
彼は尋常科から台高に入った秀才中の大秀才。上に書いた昭和12年の「台高生徒募集状況」の、尋常科の台湾人内競争率30.5倍をパスした4人のうちの一人であった。そう、彼は昭和12年尋常科入学組、手元にあった台高の資料が昭和12年、邱永漢の尋常科入学も12年…ただの偶然である。
上の写真は尋常科時代(13歳)のもので、制帽の徽章が台高になっている。顔を見ると非常に頭が良さそうなマセガキっぽく、リアルで会ったら意味もなくぶん殴ってやりたいほどの生意気な顔である。
なお、後で述べる王育徳の回想によると、このとき既に「台南の神童」として台南ではちょっとした有名人。既に台高の学生だった彼の兄、王育霖の紹介で初めて会ったのが、台北にあった「新高堂書店」だそうだが、日本語も台湾語もネイティブレベルだったという。
彼の家庭環境は複雑であった。台湾人の父親と九州出身の日本人の母親から生まれたハーフだが、家庭と当時の台湾社会の複雑な事情、そして法の下の”不”平等で「台湾人」として育てられた。が、弟や妹は全員母親の籍に入り「日本人」に。異父兄弟でもない実の兄弟なのに、永漢少年は小学生から本島人というだけで露骨な差別を受け、弟妹は日本人というだけで優遇され、やるせない思いをして育った、と自伝に書き記している。
彼の弟の稔(みのる)も台北高校尋常科に入学している。
国立台湾師範大学の中にある「台北高等学校」のサイトから卒業生を検索できるのだが(ただし中国語のみ)、その中に弟の名前も見つけた。
しかし、兄の永漢は自伝で「弟は内地人、堤稔「つつみみのる」として受験して合格した」と記し、戦後は日本人として引き揚げ東京の大学に入り直したと書いてあるので、「日本人」のはず。これは間違いだと思われる。ただし、「東経」は正解である。東京大学経済学部ではなく、新制東京経済大学だが。
邱は東大経済学部を卒業し、戦後に台湾へ戻った。が、ニニ八事件を間近で経験し反政府運動にかかわることに。それが原因で命からがら香港、日本に亡命。政治活動からは手を引き、執筆活動と「お金儲け」をしていた。日本でも「文士」が金儲けなどと批判されたが、台湾でもあまり評判はよろしくないという。
王育徳
(左が台高時代の王育徳。右は邱永漢)
王育徳(1924-1985)は台湾語をアカデミックに整理した言語学者として知られていまる。教育者として台湾語を学習者にもわかりやすいようにまとめ、20年くらい前の日本語で書かれた台湾語のテキストは、すべて王育徳が編纂したテキストがベースになっていた。
彼も台高を卒業後に東大経済学部へ進むものの、途中で終戦に。台湾へ戻るが二二八事件により、先に香港へ逃げていた邱永漢の手引きで香港を経て日本へ亡命した。が、密入国だったためにあやうく強制送還→台湾で死刑という危機を助けてくれたのが、官僚・政治家として活躍していた台北高校の先輩や、戦前に東大でお世話になった先生たちだったという。
日本では家族ともども穏やかに生活したのですが、台湾の土を踏むことはなく、民主化の前に日本で死去した。
王育徳のもう一つの顔は、「台湾独立運動家の闘士」。東京で台湾独立組織の『台湾青年社』を組織し、日本在住の台湾人を束ねて運動を起こしていた。台湾論客として有名な金美齢氏も台湾独立運動家としては王育徳の弟子にあたり、夫の周英明と共に『台湾青年社』のメンバーでした。
『台湾青年』は、蒋介石が元気だった頃は読んだのがバレただけで国家反逆罪として死刑の可能性があったほどで、指紋がつくと特務(秘密警察)にバレるのを恐れ、在日台湾人たちは割り箸で『台湾青年』のページをめくって読んでいたという。
なお、台湾青年社などの台湾独立運動は、民主化で拠点を台湾国内に移し発展解消、現在は「台湾独立建國連盟」という政治団体として活動中である。
辜寬敏
辜寬敏(1926~)は実業家だが、第一次蔡英文政権の資政(顧問)として、蔡英文総統のブレーンとなっていた人物である。台北高校との絡みでは、李登輝と並び台湾人台高OB最後の生き残りでもある。当然日本語もペラペラ、「日本人」として先の戦争にも参加した。
三澤糾
三澤糾(みさわただす。1878-1942)は卒業生ではなく、台北高等学校の名校長として今でも台湾師範大学の公式校史に名を残している。
教育一筋に生き、「自由と(学生たちの)自主」を重んじて赴任した学校の学生たちに慕われていた。
大阪府立高津中学(現高津高校)の初代校長となった時は学生の自主判断に任せ自由な校風を確立、大正デモクラシーの中のニュータイプな中学として全国でも有名になったという。その後、台高の校長に就任。台高に「自由と創造」の空気を注入した。台高の黄金期はイコール三澤校長の時代だと言われており、退任後も銅像が建てられるなど学生たちに慕われ続けた。
ちなみに、三澤の後任として赴任したのが下村虎六郎(1884-1955)であった。『論語物語』や『次郎物語』の作家、下村湖人と言った方が有名である。しかし、伝説の名校長の後任はやりづらいものだったか、台高の校長としての評判はすこぶる悪い。それが原因かは不明だが、台高校長を辞任した後は教育界に二度と戻らず、作家下村湖人として余生を過ごした。
後編は、実際に台高(台湾師範大学)の建物を歩き、今に残る建物などを紹介する。
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