【後編】台湾にあった帝国大学-台北帝国大学(台北帝大)の歴史

台北帝大サムネ 台湾史
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椰林大道

正門からは、台湾大学を東西に横切る、片道2車線はありそうな道幅の大きな道を目にすることがでる。やたら背丈が大きいヤシの木の並木道は台湾大学のシンボルとなっており、いかにも南国らしい光景を引き立たせている。この椰子は「大王椰子」と呼ばれ、人間と比べるとその大きさがわかるだろう。
台湾に椰子の木は南国なのでイメージにピッタリだが、意外にも元々台湾にはない植物であった。日本領有後すぐの明治31年(1898)に数種持ち込まれたのだが、その一種がこの「大王椰子」。

椰林大道

椰林大道

この道は椰林大道(Royal Palm  Blvd)と呼ばれ、台湾大学のシンボル的存在となっているのだが、これもヤシの木ごと台北帝国大学からの遺構である。

 

台北帝大時代の椰林大道
(出典:臺灣文化部國家文化資料庫

帝大開学7年後の昭和10年(1935)の椰林大道の写真と、82年後の2017年の写真と見比べると、ヤシの木のかわいいこと。摩天楼と化した椰林大道の木が赤ちゃんだった時の貴重な写真だが、80年後にあんな化物のような大きさに。また、今と違い椰林大道は砂利道であった。

 

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(出典:臺灣文化部國家文化資料庫より)

そこから5年後の昭和15年(1940)の椰子大道。たった5年でけっこう成長していることがわかる。ヤシの木は成長が早いのである。

 

理農学部1号館

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正門を出て真っ先に当たる矢印の位置にあるのは、「理農学部1号館」と呼ばれる建物。

台北帝国大学理農学部1号館

台北帝国大学理農学部1号館

台北帝国大学理農学部1号館

昭和5年(1930)に建てられたもので、台北帝大創立時の生き残りである。今も現役の校舎であり、日本で言えば理学部生物学科と、演劇学科が使用中だとか。
80年以上の月日が経ち、生えに生えた木々の緑と、赤いレンガのコントラストがまた独特の色使いを醸し出している。

 

理農学部2号館

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1号館の隣に建つのが、同じく理農学部の2号館。

 

台北帝大理農学部2号館
1931年(昭和6年)に完成した建物は、戦前からつい最近の2000年まで、長年理学部の物理学科が使用していた。しかし新校舎の完成で物理学科は離れ、現在は「臺大物理文物館」として博物館となっている。

訪れた当時はそれを知らず、中には入らなかったのだが、少し惜しいことをしたなーと思っても時既に遅し。

 

文政学部

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椰子大道の真ん中に位置するのが、旧文政学部の校舎である。

 

台北帝大文政学部

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昭和4年(1929)完成のこの校舎は、現存する旧台北帝国大学の校舎の中でも、いちばん威厳を感じさせる建物である。台北帝大のシンボルとなるべく、この建物にかなりお金と気合を入れた感が、今になってもひしひしと伝わってくる。
そしてこの校舎のレンガ、写真ではわかりにくいが、赤に少しくすんだ緑色が混ざったレンガを採用している。これはアジア情勢が緊迫さを増し、「国防色」という防空上の簡易迷彩色をほどこしているから。当時の世界情勢が、校舎にもあらわれ、現代にまで伝わっているのである。

 

台北帝国大学文政学部校舎昭和3年
(『臺灣事情 昭和4年』(台湾総督府刊)より)

出来たばかりの旧文政学部校舎。今と違って周りには何もなく、草原に校舎をドン!と作った感じが見える。

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おそらく昭和10年代の絵葉書より。校舎が今と全く形を変えていないことがわかる。

 

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「文政学部」とは、今の文学部と法学部・経済学部などが合体した学部だが、現在でもこの校舎は、「文學院」として現役である。「學院」は学部、看板に書かれている「系」は学科に相当する。

この「文學院」には、「人類学系」という変わった学科がある。台北帝大文政学部の「土俗人類学講座」を継承したもので、台湾考古学・民俗学・文化人類学を包括したもの。
この講座は日本どころか、世界でもここだけのオンリーワンofオンリーワン。研究内容があまりにニッチすぎたため、戦後も日本人研究者に全員居座ってもらったという経緯がある。

その中に、金関丈夫(1897-1983)国分直一(1908-2005)という人がいた。ふたりとも台湾では知る人ぞ知る人物で、Wikipedia先生一つ取っても、金関は日本語ページはあるものの中国語ページの方が充実し、国分に至っては日本語ページすらない(中文のみ)。

 

金関丈夫台北帝国大学教授名簿

(台北帝国大学案内(昭和14年度)、医学部教員名簿より)

金関は医学部を卒業した解剖学者であった。が、片手間で人類学をやり考古学をやり、小説まで書いていずれも一流の腕というスーパー学者であった。台湾考古学は当時、誰も手を付けていない学問の原野、それを金関が一人で耕していた。
言い方を変えれば、現在に残る台湾大学人類学系は、一人の学者の「暇つぶし」から始まったとも言えなくもない。

金関恕
(写真:産経新聞社より)
長年日本考古学を牽引した金関恕氏(大阪府立弥生文化博物館名誉会長)は、金関丈夫の息子で、父とともに台湾へ渡った彼は、父の「暇つぶし」に付き合うにつれ考古学の面白さに目覚め、それが生涯の生業となった。残念ながら今年3月に亡くなったが、彼も「湾生」(台湾育ちの日本人)の一人であった。

 

ところで、上の名簿の右から2番目に、「森於菟(おと)」という名前がある。変な名前の人と違和感があるだろうが、実は文豪森鴎外の長男
森鴎外はご存知の通り、陸軍軍人と文学者の二足のわらじを履いていました。父の文学DNAを継いだ妹たちに対し、於菟は医者としてのDNAを継いだと言える人物であった1

昭和11年(1936)に台北帝国大学教授に赴任し、同僚として金関の「副業」にも興味を示し共同研究も行っていた。彼も戦後の台湾に残り、台湾大学の初代医学部長(かつ台北帝国大学最後の医学部長)となっている。

国分は京都帝国大学を卒業後、25歳で女学校教師として来台。その後、金関からは考古学、旧制台北高等学校物語-前編で解説した鹿野忠雄からは台湾博物学の薫陶を受け、世界でただ一人の台湾考古学者として台湾中を掘り続けていた。国分は2005年に96歳で亡くなったが、亡くなる寸前まで研究を続けていた好学の徒でもあった。

この二人は戦後も、「帰っちゃダメ」という中華民国からの要請で日本に帰らず、台湾大学文學院の教授・副教授として研究を続けたのだが、日本には帰りたし、でも遺跡は掘りたしというのが悩みの種であったという。遺跡が見つかると、以前は「やった!」だったが、それは帰国日が延びるというあらわれでもあり、今は「しまった!(また日本に帰れなくなった orz)」になったと、家族への手紙で述べている

ウワサによると、この文學院は中身も豪華絢爛ですごいらしい。おそらく台北帝大の威信をかけて作られたこの建物、画像検索でググってみただけでもこれはすごい・・・と中に入ろうとすると。

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その門は固く閉ざされていた…。

それもそのはず、私が訪問したのは(去年の)8月。大学は夏休み真っ最中だったのです。中身を見たかったなーと思いつつ、扉が閉まっている以上仕方がない。
なので、画像だけお楽しみいただければと思う。

 

台湾大学文學院台北帝国大学文政学部

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農学部

台北帝大農学部
台北帝大農学部
台北帝大の敷地は、元々「台北高等農林学校」という農業専門学校であった。映画「KANO」で有名になった「嘉義農林学校」は、今の学制で言えば高校だが、台北は「高等」がつくとおり今の大学に相当する。
主に台湾の作物の品種改良などに携わった実業学校だったのだが、台北帝大にキャンパスを譲り学校は台中に移転した。

しかし、一部は帝大農学部付属の「農林専門部」として残った。農学部と「農林専門部」って何が違うのかはよくわからないが、おそらく現場指導者の育成と、研究者育成の違いなのだろう。

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  1. ただし、戦後にエッセイも書いています。
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