【前編】台湾にあった帝国大学-台北帝国大学(台北帝大)の歴史

台北帝大サムネ 台湾史
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大学を作ってみたものの・・・

 

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伊沢多喜男が1926年(大正15)に台湾を離れ、後任総督が大学創立事業を引き継いだ1928年(昭和3)、当時の富田町に台北帝国大学は設立された。

 

幣原坦写真台北帝国大学初代学長

初代学長は、大阪出身の幣原たいら。「幣原」「大阪」でピンと来る人は来るように、戦前に外務大臣を歴任し戦後に総理大臣になった幣原喜重郎の兄にあたる人物である。彼は元々朝鮮史が専門で、台湾は門外漢であったのだが、伊澤前総督たっての願いで台湾に赴任。大学の基礎を固めるための、8年間という異例の長さの就任であった。

台北帝大は帝国大学としては7番目に作られ、外地に作られたものとしては京城帝国大学(現ソウル大学※1)に次いで2番目。1931年(昭和6)設立の大阪帝国大学(現大阪大学)、1939年(昭和14)設立の名古屋帝国大学(現名古屋大学)よりも先輩格である。ただし、内地の帝国大学はすべて「国立」に対し、台北帝大は「台湾総督府立」という違いがある。

(※1:ただし、ソウル大学は前身を京城帝国大学とは認めていない。校舎はまるまる使ってるのによく言うわw)

 

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台湾百年歴史地図より)

1927年、台北帝大ができる直前の富田町はこの通り。当然帝大はまだ出来ておらず、同じ場所に「高等農林学校」が設置されていた。高等農林学校は、台北帝大農学部の母体となるが、農林学校自体はのちに台中に移転され、現在は「中興大学」という国立の理系大学として現存している。

 

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台湾百年歴史地図より)

台北帝大設立4年後の1932年(昭和7)の全く同じ場所の地図では、既に帝大が鎮座している。当然、今の台湾大学も全く同じ場所である。

ちなみに、台湾大学の南西、上の地図なら左下の部分には台北の水道の水源がある。地図にも「水源地」と書かれ、帝大が出来た頃には水源池が作られているのだが、それは今も同じ場所で現役で稼働し、台北市民300万人の水がめとなっている。

 

何学部を設置するかは、台湾に文学や理学など抽象的な学問はまだ早い、実学重視という内地の声に、伊澤総督は台湾の将来を考えたら抽象的な学問は必須と意見が分かれた。結局は伊澤総督の意見が通り、ひとまず総合大学の体裁を整えようと「文政学部」「理農学部」を設置することにした。

が、このどっちつかずの玉虫色が、台北帝大を悩ませることになる。

大学は作ってみたものの、厄介な問題が起こった。学生が全然集まらないのである。

帝国大学というブランドを引っさげたら学生など勝手に集まってくる。そんな「武士の商売」で開校したのだろうが、蓋を開けてみるとそうは問屋がおろさない。

「そんな辺境の田舎の大学、誰が行くか!」

と高校生たちにことごとくにスルーされ、完全に当てが外れてしまったのである。

さらに台北帝大は、同じ台湾総督府立として「姉妹校」だった旧制台北高校の受け皿、つまり、事実上の「台北帝国大学付属高等学校」である台北高校の卒業生をすべて「付属大学」へ、というレールを総督府は敷いたつもりであった。が、台高生たちには、

「ただの大学に興味ありません!」

と早々にアウトオブ眼中宣言されてしまう。今の学生目線で考えても、海の物とも山の物ともつかない新設大学と東大京大、どっちに入学したい?と聞かれると、後者の方がいいだろう。

以前紹介した台北高等学校の擬人化漫画「台北高校物語」でも、そんな現実を踏まえこのように描かれている。

マンガ台北高校物語1

 

マンガ台北高校物語2

 

台北帝国大学は、学生一人に対する教授の数が多い「日本屈指の少数精鋭大学」を謳っていた。戦前の大学案内である『帝国大学案内 昭和13年度版』に書かれた台北帝大の案内には、

「約200名の学生を擁し(中略)広大な用地と遺憾なき研究設備の中に、教授・助教授約150名に対してほぼ同数の学生と云ふ。真に他の帝大では思いも寄らぬ贅沢さである」

とあり、先生の数に対してほぼマンツーマン。

少数精鋭、この言葉の裏を返すと、先生の数に対して単に学生がいなかったというお寒い現実があったのである…。

 

台北帝国大学における台湾人学生と女子大生

向学心がある本島人(台湾人)は、台湾に高等教育機関がなかった頃には、内地(日本本土)へ留学するしか道しか敷かれていなかった。が、台北高等学校や帝国大学の開学でその流れが少し変化した。
本島人学生の数は、昭和3年(1928)の開学時には6人。ただし、学生総数が55人なので6人でも1割強が現地の人。
6年後の昭和9年(1934)になると、学生総数127人のうちの26人。割合は20.4%なので、本島人学生の割合がほぼ倍増である。
昭和11年(1936)、台北帝大に念願の医学部が新設された。
ここに本島人学生が殺到することとなり、昭和15年(1940)のデータでは本島人の割合が25.6%にまで上がっている(83/323人)。

医学部に集中はしているものの1、当時の帝大生の4人に1人は本島人という計算となるのである。

そして昭和19年(1944)、全学生394人に対し本島人学生は117人。3割に達した。台湾の教育がかなり熟してきていたということがこの数字でわかるのだが、如何せんこの1年後に終戦→帝国大学としては廃止、すべてが遅すぎた。

 

戦前の大学は、基本的には旧制高校、あるいは大学予科(後述)卒が入学資格であった。寝てても志願者が殺到する東大や京大はそれで良いのだが、それ以外は学生獲得に一苦労していていたのが現実であった。

それは帝国大学というブランドを背負っていても同じ。学生が来ない他の大学はそんなことを言ってられず、法律に何も書いていないことを逆手に取り、独自で入学資格を緩めていた。
大正デモクラシーの影響もあり、旧制高校だけではなく当時の専門学校などからも広く学生を募集、そこで「工業(商業)学校→高等工業(商業)学校→大学(工学部・経済学部)」などの新しい大学進学ルートが開拓された。
慢性的な学生不足に悩んでいた台北帝大も、入学者の出身校を見るとかなり幅広く学生を取っていたことがわかる。その中で、かなりレアなものもあった。

 

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1943年(昭和18)の学生名簿から見つけた、女子大生である。少し驚きかもしれないが、戦前にも少数ながら女子学生がいたのである。

旧制高校は、法律で「入学資格は男子に限る」と明記された女人禁制だった。が、大学は「男子に限る」なんて法律のどこにも書いていない。それを逆手に取り、定員割れの二次募集ながらも、大正時代から東大・京大以外の大学はおおっぴらに女子も採っていた。東大は正規の学部生は戦前を通してゼロだったものの、大正時代の一時期、聴講生の女子大生がいたという記録がある。

戦前の女子大生がいちばん多かったのは、東北帝国大学であった。

東北帝国大学は、最初に女子大生を採った大学としても知られているがますが2「北海道帝国大学理学部における女性の入学」という論文によると、1923~1945年の23年間で理学部22名、法文学部105名の「女子大生」が在籍し、他にも九州帝大の31名、北海道の19名、大阪・名古屋の5名となっている。

女子大生の出身校は、上記論文からの抜粋のため北海道帝大のみだが、東京女子高等師範学校3、奈良女子高等師範学校4、日本女子大学や東京女子大学5がほとんど。台北帝大の名簿を見ると、同志社女校6や津田英学塾7の名も見えます。
昭和18年の台北帝大の資料を探ってみると、全員文政学部の文学科だけながら女子は6人(聴講生含む。内2人は台湾出身で名前からおそらく内地人と思われ)。当時の文政学部の学生数が222人の6人なので、女子率は2.7%。「特例」の割には多いが、他の学部の女子はゼロ、大学全体で見るとたった0.7%。やはり「特例」と思われる。
しかし、仮にいても1人くらいだろうと思っていたので、5~6人も女子大生がいたのかと驚きであった。

 

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台湾大学の図書館で資料を漁っていると、台北帝大の女子大生の写真の写真を発見した。背後に『臺北帝國大學』の文字が見える。台北どころか戦前の女子大生の写真を見る自体初めて。まさか日本ではなく異国で初見になろうとは。

 

台北帝大のニッチ戦略

学生がなかなか来ない状態が続いた台北帝大だったが、伊澤や幣原初代学長は設立前から、ある仕掛けを作っていた。

台湾の気候の基本ベースは熱帯、そこに目をつけ、熱帯研究のメッカとして個性的な講座を開講した。文系は「南洋史」や、台湾や東南アジア民族の「人類学」、理系なら「熱帯農業」「熱帯医学」「熱帯植物学」などの研究者を招聘し、ここでしか学べないマニアックな学科をつくり、研究所を新設した。

それを足場に、フィリピンやインドネシアなどの東南アジアへの研究も進めようという、けっこう壮大なビジョン。南洋の言語の通訳養成などの実学的なものは、すでに山口高等商業(現山口大学経済学部)や長崎高等商業(現長崎大学経済学部)が専門科を設置していたのだが、人類学や考古学、理系分野は当時の日本ではほとんど手をつけられていない、学問のフロンティア。

文系理系を問わない「熱帯学」「南洋学」の研究者育成、それが台北帝大に課せられたミッションであった。

 

ブログでも「雑記ブログ」が良いのか、はたまた特定の分野に一点集中の「ニッチブログ」なのか。今でも議論が絶えない永遠の課題である。

大学も実は同じこと。雑記ブログが総合大学、ニッチブログが単科大学に例えるとわかりやすい。

旧帝国大学をブログ界に当てはめると、数多くの有能ライターを抱える雑記ブログの帝王東京・京都帝大に対し、「熱帯学」という、誰も手を付けていないオンリーワンを見出したニッチブログが台北帝大と言える。

同じ時期に、台北帝大と同じ悩みを抱えていた大学があった。台北と真逆の札幌にあった北海道帝国大学(今の北大)である。

北大はクラーク博士で有名な農学校以来の歴史を掲げ帝国大学(=総合大学)へ改組したものの、逆に大学としての個性がなくなってしまい、学生が集まらないというジレンマに陥っていた。昭和11年(1936)の募集時も、定員80名に対し志願者数49名。派手に定員割れを起こしている。前述の「女子学生が多い大学」も、実情は女子を募集せざるを得ないほど(男子)学生が来なかったからである。

しかしある時期から、雑記ブログじゃダメだ、東大京大と同じことしてても勝てないと悟り、台北帝大とは真逆の「寒帯学」(寒冷地の研究)というマニアックな方向にベクトルを向け始めた。気づいたときには戦争が始まってしまい頓挫。意思は新制北海道大学に受け継がれ、現在「寒帯学」研究のメッカとして世界中から研究者が集まっている。

台北帝国大学の最終形態(終戦時)は文政学部、農学部、理学部、工学部、医学部だったが、マラリアの研究や米の三期作の実験など、台湾ならではの研究が台北帝大をニッチ大学へと成長させることになった。最初からコンセプトを理系にシフトしていたのも幸いし、入学を希望する学生も徐々に増加していった。

同じ外地にありながら、これといったニッチな個性を発見できず最後まで中途半端だった朝鮮の京城帝国大学に比べると、台北帝大は全然幸せな方だったのかもしれない。

NEXT:台北帝大にあった「付属高校」とは

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  1. 当時の医学部は日本人74人に対して本島人は74人(朝鮮人1人)。日本人より多い。
  2. 黒田チカ、牧田らく、丹下うめの3人が日本初のJD。
  3. 現在のお茶の水女子大学
  4. 現奈良女子大学
  5. 「大学」とは名乗っているけれど、法律上は専門学校。
  6. 現同志社女子大学
  7. 現津田塾大学
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