台南の「盛り場」
台湾の京都と称される台南。「台湾」の原点であり長らく台湾の中心都市として数百年間君臨していた。
日本統治時代になり「都」を台北に移してからは、台湾の古都として、文化都市として独特の地位を築いてきた。
現在でも、高雄と共に南台湾のツートップ都市として北の台北と違った独特の存在感を保ち続けている。
そんな台南市街地中心部に、一風変わった地名がある。その名も
沙卡里巴
これは一体何なのか。
神秘感さえ漂いそうなこの文字、実は日本語の当て字。台湾華語でこの漢字を読むと「さかりば」。日本の「盛り場」の音訳なのである。
「康樂市場」という名称としても知られているが、地元では沙卡里巴で通じる。
日本統治時代初期の沙卡里巴周辺は浅い海で、魚の養殖場があったという。1914年(大正3)、ここ近辺が埋め立てられた後、ここには台湾屋台が立ち並ぶ本島人のたまり場と化した。
そこで当時の台南当局が屋台を集約し、食だけでなく劇場などのエンターテイメント場も集まり、誰となく自然と「盛り場」と呼ばれるようになったという。
盛り場という名前を聞いただけで、男の酔声、女の嬌声、酒とたばこの独特のにおいが混ざり合った大人の異空間を連想し、どこか胸が躍ってしまいそうな文字である。
現在の沙卡里巴は、屋台ブティックと呼ぶべきなのか、小吃店と同時に服飾店も目立つ。私が行った時は夜だったのでそれらの店はほとんどがシャッターを下ろしていたが、昼には買い物の台南婦人でにぎわうという。
これにもちょっとした歴史がある。
国民党が台湾に逃げてきた1950年代以降、台湾の軽工業は発展を見せた。服飾産業もそのうちの一つで、アパレル関係の小売店や仕立て屋が沙卡里巴周辺に店を構えたことから始まる。
60年代から70年代にかけ、元来存在していた飲食店を追い出すような形で服飾店が沙卡里巴の顔となり、飲食店は國華街などに散っていったという。
そして、アパレル店との分離とそれによる分散や、度重なる火事、そして設備の老朽化により、沙卡里巴に現存する食堂の数は減少の一途をたどっている。
が、今や台湾全土で食べられるようになった「棺材板」の発祥の店が現在でもここに店を構えており、その他にも数々の台南小吃の店が現在でも賑わいを見せている。
では、なぜここが「盛り場」となったのであろうか。日本語はもちろん、現地台湾のサイトでも、そこまで深掘りしているものは見当たらなかった。
そこで、日本統治時代の地図と現在の沙卡里巴の位置を見比べていると、近くにあるものを見つけることができた。
それは遊廓。
なるほど、沙卡里巴が盛り場となったきっかけは、これに違いないと。
お次は、どこにも語られていない「沙卡里巴」と遊郭の関係、そして台南にあった遊郭のことを。