台湾米を変えた男、磯永吉と記念館
台湾大学校内には、日本人のほとんどがスルーしてしまう、台湾の歴史において非常に価値のある場所が存在する。

ここ台湾大学の敷地は、「蓬莱米」の生まれ故郷でもある。
台北帝大創立以前にあった「台北高等農林学校」では、台湾の米を変える一大事業が行われていた。それを記念した碑だが「蓬莱米」とは一体何なのか。
それを作り上げたのは、ある日本人技師の存在であった。

彼の名は磯永吉。彼も日本人が知らない、台湾史の1ページに燦然と輝く、しかしいぶし銀のような日本人の一人である。
農学者だった磯は1912年に台湾に渡り、農作物の品種改良に力を注ぐ。磯のテーマの中には、台湾米の品種改良もああった。
当時の台湾米は、東南アジアで栽培されている長細い粒のインディカ米で、日本にも輸出されていたものの日本人の口には当然合わない。ジャポニカ米をそのまま台湾で栽培しても、熱さで全滅する始末だった。
台湾の気候に合い、かつ日本人の口にも合い、かつ生産性が高い米の開発という無理ゲーに挑戦した磯は、同じ技師だった末永仁と協力し、1000回以上の試行錯誤を繰り返した結果、「台中65號」という品種を開発した。
大正15年(1926)に台北で行われた日本米穀大会で、当時の総督だった伊沢多喜男によって「台中65號」は「蓬莱米」と命名された。
台湾大学創設に心血を注いだ伊沢多喜男だが、蓬莱米の命名者でもあった。
蓬莱米は、台湾人の食生活をも変えた。
総督府が高値で買い取ってくれるため、最初は商品作物として栽培していたのだが、自分らも食ってみるとこれが美味い。次第に彼らも主食として食べるようになった。
台湾大学に行く予定があれば、是非訪ねて欲しい場所が大学構内にある。

旧台北高等農林学校の敷地内、現在の農学部試験農場の構内に、磯永吉の記念館がある。ガイドブックにも載っていない上に、日本語での案内がない隠れた日本統治時代探索スポットである。


大正14年(1925)に建てられた、台北農林学校時代の木製の作業所が今でも残り、中が記念館になっている。学生などは、「磯永吉小屋」などと親しみを込めて呼んでいるとう。それにしても、日本でも大正時代の、それも木製の建物はかなりレアになってきたのに、台湾にまだ残っているとは驚きである。
記念館の中は農業研究器具や書籍などが展示され、台湾農業史には欠かせない歴史の1ページの記念館、台湾人の来訪が多いそうです。なぜならば、今自分たちが毎日食べているお米の起源がここにあるから。間接的な自分のルーツ探しともなり、密かに熱いスポットとなっている。
しかし、日本人の来訪は非常に少ないという。そりゃほとんど知られていない上に(私も大学地図をタップしまくってたら偶然当たっただけなので、偉そうなことは言えない)、場所自体が広い台湾大学構内の奥。日本人であれば「ここって関係者以外入っていいのかしら?」と遠慮してしまうような場所にあるので、そりゃ知られないだろうと。