
滋賀県八日市市、近江鉄道八日市駅の西側には、「延命公園」という公園がある。
市民の憩いの場として延命山という小山を整備して作られた公園で、桜の木が植えて春になったら花見の名所としてにぎわいを見せるという。
そんな公園の片隅に、ひっそりとある石碑が建てられている。

「忠魂碑」と書かれた碑…忠魂碑とは、戦争で亡くなった人の霊を慰めるために作られた石碑で、石碑に刻まれている陸軍の五芒星(☆マーク)と海軍の錨マークが忠魂碑の証である。。

その横に、忠魂碑ではなく「吊魂碑」と刻まれた碑もある。
「吊」は「弔」と同じ意味で使われるので、ここは「弔魂碑」である。
こちらの碑に刻まれているのは五芒星のみ。陸軍関係のものである。
八日市から出兵した人たちのか、昭和の戦争中に八日市にあった飛行聯隊の戦死者の共同慰霊碑かな、と思って近づいて見てみた。
その割にはやけに古い。明治32年(1899)に作られたものと刻まれているので、20世紀どころか19世紀のものである。
同じ軍人のお墓でも、一兵卒の墓は質が悪い墓石を使っていることが多く、崩壊が激しく墓石の文字が全く判別できないことが多い。
が、将校などの偉いさんのものは、質の良い石を使っているせいか、100年経った現在でも保存状態がすこぶる良好である。こういうのにも「階級」があるのである。

この八日市の忠魂碑に書かれている人物名は、「高瀬清太郎」。階級は上等兵。
上等兵は兵卒の中でも古参兵ではあるが、しょせんは古参兵な程度、軍隊に3年いるとほぼ自動的に昇進する階級である。
たかが…と言えば失礼な表現だが、上等兵のためにこんな立派な忠魂碑が建てられるとは、全国でも異例中の異例だと思う。
この忠魂碑の保存状態は至って良好で、画像見てもわかるように、石に彫られた文字もはっきり読み取れる。それによると、明治29年12月15日に台湾の大坪頂という場所で、23歳で亡くなったとある。
さて、明治29年(1896)に何があったのか?
1894年(明治27)に始まった日清戦争は1895年(明治28)に終結、下関条約によって台湾が日本の領土となった。
清側から見れば

台湾?あんなのくれてやる!
「化外の地」などくれてやるということで、日本はありがたくいただいたわけである。
が、自分らの意思に関係なく「日本人」になってしまう台湾住民は、たまったものではない。

なら独立してやる!💢
と、当時の清朝の役人によって「台湾民主国」が作られた。人によっては、これを「アジア初の共和国」とする者もいる。
ところが、これが紙より脆く日本軍がやってきたら見事に崩壊。
それどころか、崩壊した「台湾民主国」の軍隊が盗賊化して街を荒らすという、中国史あるあるの様相を呈し、地元の知識人が日本軍さん助けてと日本軍の陣地に駆け込んだほどであった。
で、そんな乱暴狼藉を働く人間を追い出し(というか勝手に大陸に逃げていった)、1896年(明治29)に台湾総督府ができてめだたしめでたし。
…とそうは素直に問屋が卸さない。ところどころで日本には従わないグループが武装蜂起し、駐留してきた日本軍を悩ませていた。総督府側もただ見守っているだけではなく、武力をもって討伐していた。
当時の日本軍は、住民の反乱以上に恐ろしいものがあった。台湾に蔓延していた伝染病である。
台湾は「瘴癘(しょうれい)の地」と呼ばれ、マラリアや赤痢、ペストなど熱帯性の病気が日常的に蔓延していた。デング熱は、当時は台湾にしかない病気とされた。
特に熱帯性マラリアの猛威は罹ったら数日で死亡するほど激しく、実際にドンパチして銃弾が当たった戦死者より、マラリアで死んだ戦病死者の方がはるかに多い始末であった。
日清戦争終結後から「台湾民主国」崩壊で台湾が沈静化するまでの日本軍の死者は約5,320人。うち戦病死者が4642人。なんと戦病死率87.3%。ほとんどがマラリアと思われる。
この忠魂碑にある「高瀬清太郎」なる人物も、石碑には「戦死」と書かれているものの、実際はマラリアで亡くなったと思われる。
仮に本当に弾に当たった戦死なら、戦病死率9割の中の1割。台湾史に残るレアな死因である。
で、彼が戦死した「大坪頂」とは一体どこか?
台湾のサイトで調べてみると、『大坪頂』は一か所だけではなく何ヶ所か存在していた。その中でもいちばん可能性が高いのは、今の台中市と台南市の間にある雲林県の大坪頂。
現在は地名としては残っていないようだが、1896年4月、ここで日本統治に反対する地元と日本軍混成第二旅団で激しい戦いが行われている。ただし、「高瀬清太郎」氏が死亡したの12月なのでこの戦闘とは関係なさそうだ。
そんな故郷から遠く離れたとこで死んだ彼は、どのような気持ちで当時の台湾を見てたのだろうか。それは想像に任せるしかない。
実はこの忠魂碑の存在を知ったのは、15年ほど前のこと。
それから今年(2025年)になり再び八日市に向かい再調査したのだが、15年前に見落としたものが今回見つかった。

「高瀬清太郎」の向かって反対側に、
「明治二十七八年戦没死者 看病人 役夫」
の文字の下に、4名の名前が刻まれていたのである。
「看病人」「役夫」とは軍人ではなく軍に雇われた軍属で、戦争時に歩兵部隊と一緒に行動し、弾薬の補給や輸送、鉄道建設やけが人の看護など後方任務を行った非戦闘員のこと。
まだ輜重兵(補給部隊)や工兵、衛生兵が行うものだが、おそらく19世紀にはそれが確立されていなかったのだろうと思う。
明治27年〜28年は上述の通り日清戦争のころであり、それにより日本領となった台湾での反乱鎮圧の戦いの頃。
彼ら4名が台湾とかかわったという記録も証拠もないが、大阪の陸軍墓地には台湾で戦没・戦病死した役夫の墓があるので、もしかして「高瀬清太郎」と共に台湾で散った人かもしれない。
そんな想像力をたくましくさせる忠魂碑だが、地元ではほとんど忘れられている。
碑は整理されておらず草が生え放題。人の手が入った気配は、何十年もないような状態である。
碑の四方を歩いた筆者は、結果的にクモの巣でもみくちゃにされ、後処理に困った。
そして何より、地元の知の源泉でもある図書館で聞いてみても、何の情報もないのである。
この忠魂碑の調査依頼が過去にあったかと聞いてみても、館員の記憶ではないとのこと。
それだけ忘れられているとは、約130年前に異郷で亡くなった魂も浮かばれない。
この忠魂碑、及び「高瀬清太郎」なる人物の詳細は調査依頼中につき、新しいことがわかればまた追記したい。

 
  
  
  
  



