亭仔脚から見える台湾社会学

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台湾の騎楼、亭仔脚から見える台湾の社会 台湾史秘話ヒストリア
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亭仔脚(騎楼)と台湾史

台湾の騎楼、亭子脚

台湾ではよく見かける、歩道の上に屋根や家屋が建てられている、道路下のアーケード。
これは台湾語で亭仔脚(ディンアカ)と言われ、北京語では「騎楼」(チーロウ)と呼ばれています。どう呼ぶかはお任せしますが、ここでは亭仔脚に統一します。

亭仔脚のようなアーケードは、元々高温多雨の東南アジアではよくある構造で、中国でも北京などの北方では見ることがない、福建省・広東省など南方独特の作りです。

広東省広州の騎楼です。特に広東省は海外で成功した華僑たちが金をかけて建設した、アートのような奇妙な形の騎楼が残っている場所もあり、隠れた広東省の名所になっています。

しかし、台湾でこのタイプの作りがよく見られる理由があります。
それは日本。日本統治時代の1936年(昭和11)に、アーケードを設置することが法律で義務付けられたことにあります。

おそらく、台湾総督府も台湾の暑さ対策に悩まされたのでしょう。これを作ることによって雨除けにもなるので一石二鳥。

その時に亭仔脚という名称も正式に決まり、今でも台湾の町並みの個性を醸し出すたたずまいとなっています。
しかし、たまに亭仔脚が台湾オリジナルだと書かれたサイトやブログを見かけますが、上にも書いた通り東南アジア発祥と言われていて中国でも広東省や海南島などに行けばいくらでも見かける建築様式です。

私は広東省で亭仔脚ならぬ騎楼を見慣れていたので、台湾で見た時は特に感動らしきものはなく、あっそう程度でした。しかし、これも見方によっては日本が残した遺産でもあると知ると見る角度がまた違ってきそうな気がします。

亭仔脚の「私」

しかし、この亭仔脚がただいま、ちょっとした問題を引き起こしています。
アーケードの部分は、家や店の私有地なのか、それとも不特定多数の人が通る通路としての共有財産なのか。

台北はまだマシですが、地方に行くと亭仔脚の下がとんだカオスになっていることが多い。

これなどまだ全然マシな方。

「私有地」で何を置こうが勝手じゃないか!といっても、廊下でもある亭仔脚がめちゃくちゃ狭くなっています。
万人が好き勝手に亭仔脚を使っていて、公共の道としては非常に歩き勝手が悪い。

でも、まだまだマシな方。人が通れるだけ・・・。

亭仔脚が100%私物化している典型的な一枚です。道も勝手に高くしたり、逆に低くしたりして凸凹が激しく、ちょっとした山道。

この凸凹亭仔脚、危ないだけではなく、足に相当負担がかかる。ミズノのウォーキングシューズをもってしても、15分くらい歩くと足首より下がかなり痛くなります。日本なら全然痛くならないのに。

ここまで来るとカオスです(笑

たかが亭仔脚でも、台湾に巣食う社会問題が見てわかるのです。

台湾社会の問題 「公」と「私」

日本統治時代経験者
日本統治時代経験者

日本統治時代にはこんなこと決してなかった。悲しいよ

日本統治時代経験者がまだそこら中にいて、しかも元気モリモリだった30年前、ある元日本人がそうつぶやきました。
正直、ホンマか!?今の姿見たらそう思えないぞといぶかしんでしまいますが、本編ではそういうことにしておきましょう。

司馬遼太郎の『台湾紀行』のテーマは『公』と『私』とも言えるのですが、日本時代は『公』が『私』に勝っていた時代とされています。
日本統治時代も1930年代になると社会が成熟してきて、台北の大稲埕では、細かい自治は主な住民である本島人にお任せだったといいますが、衛生と美観だけは超うるさかったといいます。

そうして『公』が台湾に定着したorしつつあった頃、残念がら日本が敗戦。
後に大陸からやってきた人たちが、「万人身勝手」の『私』を台湾に持ち込みました。

中国の歴史は、『私』の皇帝と官僚が人民を支配し、『私』の牙をむき出しにして人民を食い物にしていた『私』の歴史です。
皇帝にとっては土地も人民も『私物』『私物』に何をしても他人に文句を言われる筋合いはない。中国の為政者の基本思考は漢の時代から現代の習近平まで終始一貫変わっていません。
だから人民を平気で戦車で轢くことができるのです。

人民もやられるばかりでは生きてられないので、「宗族」という血縁集団や「結社」という理解関係や義兄弟関係で団結し、『私』を以て自己武装せざるを得ない。結果、上が『私』なら下も『私』という、ン億総傍若無人自己チュー社会の出来上がり。

戦後の台湾も、大陸から渡ってきた国民党政権が蒋介石という『私』なら、一緒に渡ってきたいわゆる「外省人」も全員『私』。国民党も共産党も、八百屋か魚屋かの違いしかない。
『私』のためなら法律も曲げ、公共の財産も私物化する『私』剥き出しの「人食い豚」に対しては、『公』をいくら唱えても豚の耳に念仏。台湾人も『私』、つまり身勝手を以て自分を守らざるを得なかったのです。

台湾史、いや春秋戦国時代以降の中国史で『公』の重要性を唱えた人物が二人います。

一人目は孫文。台湾や中国では「孫中山」という名前の方が通りますが、彼の名はどちらでもオールマイティーの聖人性を持ち、それ故資本主義だ共産主義だというイデオロギーを超えた中立性も持ち合わせている人物です。

孫文という人は、感受性が強い時期に海外へ渡り海外で育ったせいか、良い意味で中国人らしくない男でした。それが孫文の良いところでもあり、最強の武器でもありました。
人間的には超ロリコンの面もありましたが(笑)、中国人でありながら中国人を客観的に俯瞰する視点を備え、その目で『私』こそが中国人社会を侵食していたビョーキであることを看破しました。そのビョーキの処方箋として持ち出したものが『公』であったと。

彼は揮毫を頼まれると、常に『天下為公』(天下を以て公と為す)という文字を書いていました。この『天下為公』は彼のトレードマーク同然となり、孫文関係の博物館・記念館には必ずこの言葉が飾られています。

孫文が『公』に込めた思いとは何か。おそらく『私』を滅する心ということでしょう。「滅私奉公」という言葉は中国社会にはありません。あるのは「滅公奉私」のみ。そこを何とか変えたい、変えないと中国の近代化は興らず新しい中国は生まれない。その思いからの『天下為公』なのでしょう。

李登輝元台湾総統と公の精神

もう一人が台湾人初の総統になった李登輝氏。
学者肌で政治とは無縁だったこの人が総統になれたのは、ひとえに『公』しか考えておらず政治家としての『私』がなかったから。だから「中華民国二代目皇帝」こと蒋経国も、安心してそばに置けたのでしょう。こいつなら自分の寝首をかくことはない…と。

彼の『公』はどこから来たのか。

李登輝
李登輝

私は22歳まで日本人だった

と自称している通り、1923(大正12)から1945年(昭和20)8月まで紛れもない「日本人」だった彼は、人生の約四半世紀を通して「公」が充満していた社会で生まれ育ちました。
それが自分の肉として骨として形つくられている、彼はそう答えています。

「22歳までの日本人」としての自分は常に喉元まで詰まっている。彼は司馬遼太郎に言いました。それは22歳まで積み重ねた『公』の精神も、同様に詰まっていると言っているに等しい。

そんな李登輝が、長年総統をやり続けた最大の理由と本人が語っているものは、台湾に『公』の精神をもう一度復活させること。「22歳まで日本人だった」彼は日本の教育を受けた『公』を純粋培養させたような存在として、台湾が未来に向けて発展するには、『公』が必要だと感じたのでしょう。すべては台湾という『公』のために。

たかが亭仔脚でも違った角度で見てみると、石造りの亭仔脚に血が通いはじめ、立派な社会史になるのです。

台湾中の亭仔脚が公共スペースとしてスムーズに歩くことができるようになった時こそ、台湾の民主化は『公』のオーラをまとい、完全体となったと言えるのではないでしょうか。

おわりに 台湾の夏は亭仔脚の下を

それにしても、亭仔脚が設置された理由は、今回台湾で暑さにやられそうになって気づきました。

筆者は人が多く暑苦しそうな亭仔脚アーケードを避け、日差しの強い日なたを歩いていたのですが、そこを歩いているだけで体力の消耗が著しく激しい。
耐えられず亭仔脚に避難すると、少しだけとは言え涼しいのです。少なくても大量の汗をかくことはありません。
郷に入れば郷に従え、夏の台湾は素直に亭仔脚の下を歩きましょう。

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