「国父」はロリコンだった?!-孫文の意外な一面を考証する

孫文孫中山台湾情勢コラム

孫文孫中山

写真の男の名は孫文。職業、無職。自称革命家。

数ある中国人の中でも、孫文という人は日本での知名度が高い方です。名前は知らなくても、上の写真の顔、世界史の教科書で見たな~という人も多いはず。

しかし、「孫文」と言っても、海を渡るとその知名度はガクンと下がります。中国などでは知られていないの?というわけではありません。彼、またの名を「孫中山」といい、こちらの方が通りが良いのです。実際、わざと孫文と言って試してみても、はぁ?な反応だった中国人が、間違えた孫中山ねと言ったら、ああ!となったことは数知れず。また、「逸仙」という名もあり、香港ではこちらの方(広東語でスンヤッシン)が通りが良い気がします。

彼は中華民国の「国父」として、現在台湾では高い神輿に載せられています。日本で言うなら、明治天皇のような扱いに似ています。

台北国父記念館

台北の「国父記念館」には孫文の銅像がこのように鎮座しており、毎時間衛兵による交代儀式も行われています。

百元新台幣

また、新台湾ドル(台幣)の100元札に描かれている人でもあります。

私が住んでいた1997年の台湾は、李登輝政権による民主化ですっかりフリーダムな社会になっていましたが、その前の戒厳令や、「国父」に対する扱いは背景放射のように残っていました。学校の華語(当時は【國語】と言っていた)のプレゼンで孫中山大先生についてのレポートを書いた時、

「これがちょっと前(の台湾)だったら、あなたの文章を起立して直立不動で聞かないといけないじゃないwww」

と老師に笑われたことを思い出します。
中華人民共和国でも、孫中山先生はかなり持ち上げられています。広州には「中山記念堂」があったりしますが、彼の最後の妻である宋慶齢が中華人民共和国の名誉主席だったこともあり、毛沢東などに比べ存在は非常に薄いものの、「準国父」扱いとなっています。

 

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「天下為公」

孫文が遺した言葉の中でも有名な言葉に、

「天下為公」

という言葉があります。

文字通り、「天下(世界)は公である」というようなニュアンスですが、日本ではいまいち有名ではない。なぜか。ピンとこないから。では、何故ピンとこないのでしょうか。理由は簡単、「天下は公器」なんてそんなの当たり前だから。
日本社会は、長い間「公」の社会でした。そのため「私」に馴れた社会の人には窒息することもあります。福沢諭吉は社会に溢れる「公」に対し、ちょっとは自己中…と言えば語弊がありますが、「自分ファースト」でもいいのよと「私」を説いたほどでした。
対し伝統的中国社会は、たぶんに「私」の社会。それは現在も変わりません。お上が「私」を振り回し民草を私物扱いするのに対し、民草の方も「私」で対抗する。それが「中国四千年の歴史」です。

「中国社会とは何か。一言で表せ」

こんな試験問題があったとしましょう。私はこう答えます。

「私」

以上。それ以上に言葉は不要です。

孫文は、生まれこそ中国大陸の伝統的な社会出身でしたが、12歳でアメリカに渡りそこで育ちました。そのせいか、良くも悪くも「脱中華」していた人なので、第三者として中国社会を客観視する眼を持っていた数少ない人物です。「天下為公」は中国社会の弱点を深くえぐった言葉なのです。
が、字面をまっすぐ読んで

「さすがは中国人だ」

なんて感激する日本人がけっこういるのですが、ある意味純粋(白痴)ね…と生暖かい目で見つめてしまいます。

 

孫文、その華麗な(?)結婚歴

孫文は知っていても、おそらくほとんどの人はざっくりとしか知らないかもしれません。彼がある意味面白いのはその結婚歴の数々。日本ともかかわりがあるこの結婚歴を見ていきましょう。

孫文最初の妻盧慕貞
孫文最初の結婚は1885年(明治18)、19歳の時でした。相手は18歳の盧慕貞で、同郷だった親どうしが決めた結婚でした。二人の間には3人の子供が生まれましたが、孫文はほぼほったらかしだったそうで…。

 


二番目の妻は陳粹芬。孫文24歳の時彼女は18歳でしたが、中文Wikipediaによると正式な結婚はしていない(ただし、孫家の妾としては認められた)説もあり、ここは曖昧です。

 

まあ、ここまでの孫文の女遍歴は至ってまともです。ここから、孫文の女遍歴がちょっと(?)ヘンになります。

 

1900年(明治33)、孫文は広東省恵州で反清の兵を挙げます。が、あえなく失敗、尻尾を巻いて日本に逃亡します。

 

その逃亡生活の間に出会ったのが浅田ハルという女性。彼女とも結婚はせず、愛人としてずっとそばに置いていたそうです。

さらに1902年(明治35)、またもや政府打倒に失敗した孫文は尻尾を巻いて日本に逃げ込み、たまたま立ち寄った横浜で大月薫という少女・・と出会います。重要なのでもう一度書きます、少女・・です。

大月薫
(画像:Wikipediaより)
孫文が出会ったのは彼女11歳の時。孫文は35~6歳だったはずです。上の写真は彼女12歳の時のものと伝えられていますが、確かに鼻筋がキリッとした和風美人です。孫文は彼女に一目惚れしてしまい、事もあろうに猛アプローチ。30代後半のおっさんが「小学生」にプロポーズとは、いくら時代が時代とは言え、ネジが数本外れているとしか思えません。いや、そもそもそれはネジなのか!?と思ってしまうほどのぶっ飛びぶりです。さすが革命家はスケールが違う。

当然、大月の家族は猛反対しますが、4年かけて説得した上で15歳で結婚…といってもほぼ駆け落ち。しかし、大月薫との結婚は妻を中国に残してであり、そこはさすが革命家、細かいことにはこだわらなかったようです。
日本で女作りたい放題の旦那のことを知ってか知らずか、子供だけ作って放置プレイされた妻はどんな思いだったのでしょうか…。
そしてその大月薫も、のちに放置プレイされ離婚という形になりました。孫文との間にできた女児は、戸籍上は母の「妹」とされのちに養女として他家に出されました。生活が困窮した大月はその後、足利の住職と再婚し子供も出来るのですが、旦那には早死にされ息子はブラジルで殺され、あまり幸せな人生とは言えなかったようです。

 

宋慶齢
そして、孫大先生女遍歴のしんがりを務めますは、かの宋慶齢(1893-1981)。宋慶齢は孫文の26歳年下ですが、やはり孫文、猛烈にアタックします。おそらく、女好きの血もあったでしょうが、上海きっての富豪だった宋家のお金が欲しかったという、現実的な理由もあったでしょう。

宋家は当然、年の差ありすぎ!と猛反対しますが、すったもんだがあり1915年(大正4)、東京で結婚式をあげました。宋家の方も、知名度が高い孫文の義理の家族という箔がついた「Win-Win」の結婚でしたが、宋慶齢もまんざらでもなかったようなので、それはそれでよかったでしょう。

とどめはこれ。

孫文ロリコン

出所は不明ですが、おそらく船の甲板で撮影されたものだと思われます。顔からして孫文40歳前後、女性は10代か20代前半でしょうか。
女性の肩に手を回すだけでも、当時はとんだ破廉恥な行為ですが、女性の顔が片方はフリーズ、もう片方はにらみつけています。孫文の手の位置から、もしかして胸触ってる?(笑

 

このように、孫文の後半の結婚相手はかなりの年下。まあ、孫文に言わせたら、

「目の前にいた美女が、たまたますごく年下だっただけだ」

と言うでしょう。すごく口八丁手八丁だったそうですから(笑

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