神戸高砂ビルと台湾の絆

神戸旧居留地の高砂ビル・台湾人の李が建てた台湾史
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敗戦ーそして戦後の高砂ビルへ

1945神戸空襲で焼けた市街地と焼け残った神戸中央モスクAIカラー化
空襲で焼けた神戸市街地と焼け残ったモスク。AIによるカラー化

1945年(昭和20)、神戸の街は空襲による焼夷弾で焦土と化し、戦争は終わった。
日本に住んでいた本島人(台湾人)たちは「戦勝国民」となった。が、「外国人」として帰台するか異邦人として残留するかの二択を迫られた。

前者には、有名どころとしては李登輝や、のちに台湾を追われて日本へ亡命した邱永漢や王育徳などがいたが、中にはこんな人もいた。

当時13歳だった彼女の名は陳蕙貞。この名前で誰かわかった人は、まずいないだろう。

しかし、この顔で思い出した人も多いと思う。
そう、1980年〜90年代の中国語学習者で彼女の顔と声を見たことないという人はいないだろうNHK中国語講座講師のレジェンド、陳真(1932-2005)さんその人である。私も高校生の時に見たNHK中国語講座での、品の良いきれいな「日本語」を今でも覚えている。
北京から来た人なので「育ちの良い老北京のお嬢様」と思われがちな陳真さんは実は両親とも台湾生まれで、彼女は東京で生まれ育った。
では、台湾へ帰ったはずの彼女がなぜ「老北京」となったのか。それにはドラマにできそうな壮絶な物語があるのだが…それはまた別に書くことにしよう。

閑話休題。

李兄弟は後者を選んだ。その決心までの経緯はわからないが、おそらくすでに神戸で家庭を持ち、商売もあり、神戸に愛着を持っていたため離れるメリットはないと判断したのかもしれない。

建設中の神戸高砂ビル
4階の資料室の展示写真より、建設中の高砂ビル
1949年神戸高砂ビル竣工直後の記念撮影
1949年神戸高砂ビル竣工直後の記念撮影。4階の資料室展示写真より


そしてその4年後の1949年、現存する高砂ビルを建てた。

神戸の旧居留地の高砂ビルの倉庫時代
倉庫時代の高砂ビル内部。4階資料室展示写真より

製帽・帽子の輸出で倉庫は潤い、当時はかなり賑わったという。

しかし、神戸の沿岸の埋め立てで荷揚げ地が地理的にビルから離れていくなか、倉庫としての高砂ビルの用途は変化していった。

1972年(昭和47)、ビルの一部をテナント・オフィスとして大改装を行った1。それにより、現在の高砂ビルの原型ができあがった。

「高砂製帽商行」は、実は今も高砂ビルの中に生きている。ビル自体「高砂商行」が経営しているが、その中には直営の帽子屋があり、本パナマなど様々な種類の帽子を扱っている。「帽子屋」のDNAはまだ残っていたのだ。

神戸高砂ビルの中にある春聯

また、ビルのオーナーは現在も李さん(息子の李啓洋氏)であり、1階エレベーターには春聯が飾られ少し台湾チックになっている。

高砂ビルは神戸の一等地に位置しているのと、前述の通り映画の「聖地」として知っている人も多いと思う。しかしながら、これが台湾と縁があるものだと知る人は少ないだろう。
神戸に根付いた台湾人は多いと聞くが、それが形になり現在も残っているものの一つが、この高砂ビルであろう。
こうして歴史を掘っていくと、このビルへの見方が一つ変わるかもしれない。

  1. 倉庫としての用途が完全に終わったのは1975年。
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