台北から台湾島を南下すると、「台湾南部」の玄関口にあたるのが嘉義。
今は観光鉄道になっている阿里山鉄道が運ぶ木材の出荷口としても有名な町で、日本時代は”木の町”とも称された。

そのせいか、市内には木造建築が他の町より多い気がする。「微笑台湾」によると、6000棟余りの木造建築が市内に残っているという。

このように、縁側が残っている100%和風(日式)建築まで残っている。

いやー懐かしいなー😊
うちのおばあちゃん家、こんなんやったわ♪
台湾人より日本人の方が反応してしまうほどの「和」である。
嘉義は大東亜戦争で空襲を受けたとのことだが、昔からの建物もけっこう残っている。
その中でも目立つのが、この建物である。

「嘉義薬局」と書かれたこの洋風の建物。

戦前からの建物か?
と貫禄さえ見せつけるこの建物、プレートを見るとなんと1951年築。
しかし、1920〜30年代に流行った丸窓(中文で「牛眼窗」という)など、日本統治時代の建築の流行をふんだんに採り入れている。
これが「戦前築」と勘ちがいさせる最大の要素で、日本なら間違いなく大正時代末期か昭和初期築認定されてもおかしくない。
戦後になってもまだ10年も経っていない時期、日本時代の背景放射が色濃く残るものを感じる建物だが、「薬局」とあるように元は薬局だった建物。

ここは、何寄生という人物が創業した薬局である。
日本統治下の1902年に新港で生まれた何は、1920年代に薬学を学びに日本へ留学し、帰郷後に薬局を開いた。
当時の登記によると、薬局を開いたのは1927年9月、大正が終わり昭和が始まった頃のことである。
当時の嘉義市は町の規模の割には薬局が少なく、何が「嘉義薬局」を開業した数年後でも、登記された薬局はわずか5軒のみだったという。
戦後の1950年代、息子の何瑞章が跡を継ぎ薬局を経営するが、1997年に彼の老齢によりその暖簾を畳んだ。

この建物は、二代目が跡を継いだ頃に建てられたものである。
筆者が見つけた時に見逃したことがある。

この建物、「鉄筋コンクリート」ではなく、「木造コンクリート」なのである。
さすがは嘉義。コンクリ建築に見えて実は木の町に違わぬ木造でしたというオチで、今回は締めくくろうと思う。