
台湾の南の玄関口、高雄。
その市街地から南西にある市街地がある。
そこが今回の舞台、哈瑪星(はません)地区である。
一風変わった名前であるが、この変わった名前はどこから来たのか、そしてどういう歴史を歩んだのか。それを本編で追っていこう。
高雄はここから始まった!哈瑪星の歴史
高雄はもともと、地元先住民から「ターカオ」と呼ばれた地で、大陸から渡ってきた漢民族は、そこに「打狗」と当て字をした。そこからしばらく、「打狗」として日本でも認知されることとなった。
ところで、台湾の和名に「高砂国」というものがある。
これは江戸時代初期に台湾、と認識される地を「たかさく(ぐ)ん」と呼ばれていたことから命名されたものだが、さて「たかさぐん」とはどこにあったのか。
これについては諸説あるが、おそらく現在の高雄、つまり打狗あたりだっただろうと言われている。
その「たかさぐん」には、すでに和人(日本人)漁民の集落があったと記録に残っているが、詳しいことはわかっていない。
のちに日本と台湾は、台南近辺のオランダ統治を通して一定のお付き合いがあったが、幕府の鎖国政策による二つのつながりは、ここでいったん途絶える。

なお、打狗は19世紀の英仏軍とのアロー戦争(第二次アヘン戦争)の後始末である天津条約(1858)で、台湾の開放港の一つに指定された。
その時に英国領事館などがつくられ、現在は歴史史跡として保存されている。
打狗から高雄へ

明治28年(1895)、日本は清国との下関条約により、台湾を領有することになる。
台湾は、今でいう地政学的にはかなり重要な位置にはあったが、ある致命的な欠点があった。近代に堪えられる港がなかったのである。
台湾の重要港と言えば、今でこそ北の基隆に南の高雄があるが、領有当時はそんなもの存在しない。
当時の港と言えば、北は淡水、南は安平(現在の台南市)だったが、近代的な船が接岸できるようなものではなく、ジャンク船が横付けできる程度。
台湾を領有した日本政府が台湾で一丁目一番地にやらなければならなかったこと、それは(近代的な)港の構築であった。
その南の玄関口として白羽の矢が立てられたのが、この高雄だったのである。

1910年代前半の高雄港あたりの地図だが、打狗にはすでに旗津や、英仏によって開港された哨船頭には集落や小規模の漁村が存在していた。が、日本が目を付けたのはそこではなく哨船頭の向かいにある新開地であった。
神戸や横浜も人口数百人の漁港から出発したことから考えると(神戸は「兵庫」が国内港として栄えていたが、神戸とは別もの)、高雄も同じような歴史を歩んだと言っても良い。
上の地図を見ると、「旧打狗駅」の東側は、現在も「塩埕埔」という地名であるとおり塩田で、西側は無人の地。ここが本題ともなっている「哈瑪星」である。
日本人はここを新開地とし、近代港湾を作るにあたって余剰となった土で埋め立て、ここに「THE NEW打狗」を建設した。
これが、現代へと続く近代都市としての高雄の始まり。哈瑪星は「高雄発祥の地」なのである。
「高雄」の由来 名前の発祥は京都ではなく東京!?
ところで、打狗だった高雄は大正9年(1920)に改名されるのだが、「犬を殴る」という地名がお下品だということで改名されたのは事実のようである。
「高雄」については、京都の高雄から名付けられたという説が知られているが、実はこれ、エビデンスがない俗説。おそらく、京都の高雄と字が同じだから…ということから広まったのだと思われる。
「高雄」の由来については、こんな話が残っている。
元は「打狗」の元名のターカオをベースに、「高尾」にしようという案だった。京都の高雄ではなく、東京の高尾(山)だったのである。
しかし、ここで待ったがかかった。

え〜高尾って…高尾太夫みたいでイヤだ
高尾太夫とは、仙台藩の三代目伊達綱宗が吉原で放蕩三昧を行い、仙台藩があと一歩で取り潰しになりかけた、「寛文の伊達騒動」の一因を作った伝説の遊女(太夫)である。遊女を傾城とも呼ぶが、伝説半分とは言えリアル傾城がいたのである。
仙台藩はそれ以降、江戸時代を通して藩内の遊郭設置を絶対認めなかった(石巻と塩釜だけ、漁師が暴れるので超特例で認めた)くらいのPTSDに陥ったのだが、そんな人間を模した名前などイヤだというわけである。
もしかして、待ったをかけた役人は宮城県出身だったのかもしれない…と想像をたくましくする話である。
そして、喧々諤々の議論をした…かはわからないが、結局、

じゃあ、これからの町の発展を願って「尾」を「雄」にしよう!
に落ち着いた。こうして「高雄」は誕生したと。
この話、一個人の記録であれば

はいはい、創作乙。エビデンス出せや( ´△`)y-~~
となるのだが、この話、まんざら無視できないのである。その理由は、この話を紹介しているのが「高雄史を語るには絶対避けられないある大物」だからである。
その人物の名とは…

下村宏(1875-1957)である。
下村は台湾総督府ナンバー2(民政長官・総務長官)として台湾のインフラを整えた、台湾史には絶対欠かせない人物である。が、キャラが地味なせいか日台ともに知名度は高くない。
ただ、日本では歌人・エッセイスト「下村海南」として、そして昭和20年8月15日の玉音放送の「総合プロデューサー」として名前を知っている人もいるかもしれない。
そんな下村が現代台湾にも大きな影響を与えている政策が、1920年の「地名改正」であった。

ややこしい字の地名はすべて改名しま〜す!
のかけ声の下、台湾の地名の一部が「日本風」になった。

台湾の地名って、たまに「日本っぽ〜い!」という所、ありますよね?
松山、板橋、豊原、玉井、岡山、清水、美濃、大津…挙げていけばいくつもの「日本地名」が出てくるが、これは気のせいではなく、実際にこの時、日本風に改名されそのまま残った地名。
その「台湾地名改名大作戦」の総責任者が下村だったのである。
もちろん、打狗→高雄への改名も彼が目を通していないわけがなく、「高雄」という名の事実上名付け親と言えよう。
上の「高尾話」も、実は下村が「エッセイスト海南」として書いた昭和初期の文章に書かれていたこと。「高雄を作った人」が書いただけに説得力がある。
その他の下村の台湾・高雄との関わりについては、下のブログをどうぞ。

高雄の発展と「浜線」


1920年代初頭には駅を中心に街が開け、駅前地区は日本人を中心とした新町として栄えた。
昭和5年(1930)前後の台湾各都市における内地人の割合は、台北が最高で人口の25%ほど。最低は台南の8%で、高雄は台北と同じく25%前後。時によってはほぼ3割が内地人だったこともあり(内地人率は台北より上)、高雄が日本人により開かれた町であることがこの数字でもわかる。
そして、高雄駅周辺の新開地に住む内地人たちは、高雄駅や港まで延びる鉄道路線を
「浜線」
と読んだ。
駅前地区の地名は、日本統治時代は「新濱町」であり、濱町への路線という意味で「浜線」と名付けたのかもしれない。
その呼び名は、日本統治時代が終わった戦後も続き、台湾語で「哈瑪星」という地名として残った。「哈瑪星」は台湾語で「はません」。由来は日本語だったのである。

戦後に高雄市街の中心部が現在の北部に移り、哈瑪星地区は少し寂れてしまった。
が、歴史を大切にしつつ新しく観光地として絶賛開発中である。地元も「哈瑪星」いや、「はません」という呼び名を大切にしてくれている。これも立派な歴史だから。
お次は、哈瑪星とある大作家との意外なつながりを。