2019年4月11日、台湾で歴史を塗り替えるような大発見があった。

後藤新平のデスマスクが台湾で発見されたというニュースである。

後藤新平(1857-1929)と言えば、医者にして政治家、東京市長や満鉄総裁などを歴任し、関東大震災で崩壊した東京を復興させた責任者として、現在の東京の骨格を作った人物として非常に有名な人物である。
台湾史においては、総督の児玉源太郎とコンビを組み海のものとも山のものともつかぬ台湾の近代化への基礎を築いた人物として、台湾でも歴史の授業で習う有名かつ重要なキーパーソンである。
顔だけを見ると、いかにも頭が切れそうで上司としては非常におっかなさそうだが、後藤の細かい経歴と残したお仕事の数々は、書き出すとWikipedia先生の項目一つ分になってしまう。
何せ、台湾でのお仕事だけでも本1冊分になってしまうのだから。
日本による台湾統治
台湾の歴史を語る上で、絶対に避けて通れないのが日本が統治していた1895年から1945年にかけての50年間。法的にはサンフランシスコ講和条約が発効する1952年までなのだが、それは法律論の話になって本題から反れる上に、台湾が真っ二つに裂けるほどの喧々諤々の議論中の案件につきまたの機会に。
台湾では「日本時代」「日治時代」はたまた「日據時代」ともと称されるこの50年間、果たして良かったのか、それとも悪かったのか。
私から言いたいのは、以下の通りである。

歴史は『良い』『悪い』の二元論で決裁できるもんちゃうわい!
そして、この日本時代を台湾人はどう評価しているのか。
私もライフワークとして台湾史を勉強している者として、この言葉が台湾人の日本時代観の正鵠を射ているかと思われる。
「日本による統治のもと、彼らは法秩序の恩恵を享受した。警察は厳格で、時には手荒なこともした。また、日本の植民地総督府は、台湾人を二等国民として扱っていた。しかし、日本政府による改革と指導によって、台湾経済の目覚ましい発展とともに、生活水準も格段に向上し、(中略)日本に次ぐアジア2位にまでなった」
(彭明敏『彭明敏自伝』)
「台湾」「政治家」「日本時代」というと、日本人の1000人中999人は李登輝氏を思い浮かべ、彭明敏という名前でピンとくる日本人は、甘めで10000人に一人くらい。しかし彼は、「台湾建国運動」において「台湾の良心」と呼ばれる一人。
台湾での名声は元総統李登輝氏と同格。それだけにこの言葉は大きな権威と重みを持ち、実際にその時代を体験したからこそ説得力もある。
その日本時代を語る上で、絶対に避けて通れない人物が、今回の主役である後藤新平なのである。
後藤新平と台湾のつながり
後藤は幕末の、のちに賊軍となる東北の水沢藩の出身。幼い時から頭脳明晰さを買われ医者となるが、のちに政治家・行政官に転身する。

あまり知られていないが、後藤新平は江戸時代の蘭学者高野長英の遠縁であり、長英自身も後藤本家の出身(高野家の養子)。新平は分家なので直接な血のつながりはないものの、明治時代に高野長英が再評価されるまで、特に幕末の少年時代はこれが原因でいじめや差別に遭っていたという。

明治31年(1898年)3月、4代目台湾総督に児玉源太郎が就任した。その児玉は、かねてから目をつけていた後藤に台湾統治のお供を命じた。これが、現在でも台湾の歴史教科書に掲載されている台湾政治史の名コンビの誕生である。
が、実は後藤は台湾統治初期から、特にアヘンの取り扱いについて提言を行っており、水沢の記念館には当時の総理伊藤博文や、初代総督の樺山資紀に提出した台湾のアヘン対策の上申書が残っている。
児玉とも陸軍と衛生取締役として日清戦争後の検疫事業とつながりがあり、児玉はこれで後藤を知ったという。
当時の台湾は日本に割譲されて間もない頃であった。日本統治に納得しない匪賊が抵抗を続け治安は悪く、瘴癘の地と呼ばれたマラリア・赤痢・コレラなどの伝染病のデパート状態であった。
しかし、それ以上に厄介だったのは、一旗揚げて台湾へと渡った日本人1であった。
彼らは主に総督府の役人として台湾へ渡ったものの、モラルは低く島民の不満をさらに駆り立てていた。
児玉の前の総督は、のちに日露戦争で有名になる乃木希典であったが、右を向いても左を向いても煮ても焼いても食えない連中ばかりの台湾に、政治家としては純粋すぎた乃木はノイローゼになり、結果もう嫌だと投げ出してしまうほど。
乃木希典のこんな写真がある。
(『回顧乃木将軍』菊香会編).jpg)
「明治30年3月」と書かれた乃木の写真だが、この時期は台湾総督の頃でもある。
乃木は老いた母親を台湾へ帯同させていたのだが、台湾での気候の過酷さもあってか、赴任半年後に死去。この写真はその時(母親の喪中)の写真だという。
乃木は軍人らしく、キリッとした姿の写真が多い。が、台湾総督時の写真自体珍しいのに、その上目がうつろで焦点が定まっていないものは非常に珍しいと思われる。母親の死のショックもあろうが、生真面目すぎるくらい真面目な乃木は日常の業務の煩雑さで少し鬱っぽくなっていたかもしれない。
児玉・後藤コンビが台湾に来て、いの一番に行ったことが彼らの大量馘首だったことから、これが台湾統治のガンだと手を下したのだろう。おそらく乃木からの引き継ぎにもあったに違いない。
それはさておき、清朝が

俺たちでも無理だったんだ、小日本なんかには100年かかっても無理ゲー!
と李鴻章に上から目線で言われたほど根が深い阿片(アヘン)対策は、いきなり廃止はせず、吸引者の数を徹底管理してじっくり減らし、さらに専売制にして総督府の収入にする方針に転換。時間はかかったものの、李が「100年でも無理」とサジを投げたアヘン患者を、50年後にゼロにすることに成功した。
後藤の政策は多少荒っぽいところもあったが、一つ言えることは、後藤が築いた台湾の基礎は、現在の台湾にも少なからぬ影響を与えているということ。
のちに、後藤を否定する形で、台湾政策に一家言持っていた原敬首相によって、「同化政策」が実行されることになる。当然、それは後藤が築いた基礎をベースとして。

お次は、なんで後藤のデスマスクが台湾にあったのか?
その理由を探ります❗❗次ページへ続く