
高雄駅前のバスターミナルから路線バスに揺られること2時間、高雄市の山間部に位置する六亀という場所がある。


お茶やパイナップルの産地として知る人ぞ知る地だが、それ以外は至ってふつうの田舎町。
といっても、セブンイレブンやファミマのコンビニはある。
観光客という立場上、同じような観光客が多い場所を回ることが多いので、思えば遠くへ来たもんだ的な雰囲気を味わうことができる。

またここは、さらに奥地にある「蝶の谷」や温泉地への玄関口の町となっている。
そんな六亀の村だが、歴史的にはもう一つの顔を持つ。
今回は、日本語の情報がほとんどない高雄の田舎町のとある建物のお話。
原住民との交流の村
この六亀、内地人と呼ばれた日本人、漢民族、そして原住民との居住地の「国境の町」でもあった。
奥地には原住民のルカイ(魯凱)族など数々の原住民が住み、よそ者を簡単に入れない地であった。
ルカイ族の代表的な町に「霧台」という秘境の町があるが、その昔、といってもたった30年前なのだが、はその町へ行く途中に検問所があり、地元警察が発行する入境証がないと中には入れなかったほど。日本時代の話ではない、私が台湾に住んでいた30年前の話である。
おそらくだが、その入境証を発行する最寄り警察が六亀だった記憶があるのだが…。
閑話休題。
100年以上前、近隣の町に洪という一族が住んでいた。姓からして、おそらく客家だと思われる。
旗山というふもとの古い町で商売を展開していた洪一族の一人に、洪見涛という人物がいた。
彼は、当時は日本だったお役所から許可をもらい、六亀で雑貨店「洪稛源」を開いた。1912年、明治45年のことである。
なお、「洪稛源」とは人名のように見えるが、日本でいう屋号であって人名ではない。
この雑貨屋は、もう一つの特徴があった。それは原住民との(物々)交換所としての役割。
原住民は、山で手に入れた獣の皮や藤などの物資を持って山を下り、生活に必要な塩や砂糖、マッチなどをここで交換していた。
その「交易所」が、現代にも残っている。

「洪稛源」の名前が目立つこの建物が「交易所」の跡である。

時期は不明(おそらくかなり古い)だが、「洪稛源」を背景にした洪一族の写真。左側には、おそらく山を下りてきたのだろう、民族服を着た原住民の女の子たちも写っている。洪一族の伝統服と子供たちの学校の制服ともあいまって、なんだか多国籍の香りすらする不思議な写真である。
なお、真ん中の女性たちは纏足をしていないので、上述した洪一族は客家であるという仮説は当たっていると思う。

そして時代が移り、昭和に入ってからの写真。
女性の服は洋服(ワンピース・ツーピース)がメインとなり、男性は「国民服」と呼ばれた統一服を着ているので、1940年以降か。



意外なものを見つけた。日本のレトロ扇風機である。
これは昭和の古い扇風機を模したレプリカ扇風機で、「KOIZUMI」と書いているとおりもちろん日本製。
現役で売られているものだが昭和レトロブームもあって人気があり、筆者も買おうと思ったが、売切再入荷時期未定とのことで泣く泣く諦めた経緯がある。
まさかこれを台湾で見るとは思わなかったが、「洪稛源」のインテリアと妙に合って違和感がない、なさすぎて気づかないんじゃないのかというほど溶け込んでいるのも、台湾と日本の歴史のつながりを感じさせる。
2017年に歴史的価値が認められ修復され、翌年に洪の子孫の同意のもと資料がすべて高雄市に寄贈された。
そして2021年、高雄市の歴史建築に公式に認定された。

内部がリノベーションされた現在、中では喫茶店が営まれている。
原住民のプヌン族の若者が運営しているのだが、名前は「亀心商行」。これは六亀の「亀」と、「帰」が同じ発音のため、「おかえりなさい」という掛詞なのだという。
私は時間の余裕がなくゆっくりできなかったのだが、ここへ来る時は時間に余裕をもってコーヒーを飲みながらいにしえの歴史を堪能してほしい。
終わりに
日本語の情報も少ないこの六亀の町、「町の人みんな知り合い」なので日本人は「おー!ジップン!」と台湾語で言われるくらい珍しいので、時間があれば訪ねてみよう。
筆者は、次は山奥の温泉にも足を伸ばしてみようと思う。
なお、こんな山奥の六亀にも、日本統治時代を物語る残滓がまだあったりする。
その残滓とは一体…

今書いてるからちょっと待ってね…