李柏青(宮原永治)−インドネシアの英雄となった台湾人兵士

インドネシアで戦った台湾人、李柏青こと宮原永治 台湾史人物事典

2023年6月、天皇皇后両陛下がインドネシアを訪問された。その際、カリバタ英雄墓地を訪れられた。

カリバタ英雄墓地には、インドネシア建国で土となった数々の骸が眠っているが、その中には大東亜戦争が終結した後もインドネシアに残り、命令を破ってまでインドネシア人と一緒に戦い、そして建国に殉じた日本人も眠っている。

実はその中に、台湾人も一人眠っていることはご存じだろうか。
彼の名は李柏青。日本名は宮原永治。彼の人生をたどってみよう。

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李柏青(宮原永治)ーある台湾人の生涯

李は1922年(大正11)、日本統治下の台南で生を受けた。

昭和に入り総督府によって行われた皇民化教育により、彼の家は本島人でありながら日本語を常用とする「国語家庭」となり、姓を日本風に「宮原」に変えた。

彼の名前も、李柏青から宮原永治に改名した。

李柏青宮永永治

1941年(昭和16)12月の真珠湾攻撃から始まった日米戦争(太平洋戦争)勃発後、彼は当時の日本人の義務を果たすべく陸軍に志願。無事合格し陸軍軍人としてミャンマーやフィリピンなどを転戦した。
李がなぜ軍人を志願したのか。当時の本島人に兵役の義務はなかったのだが、当時の政府が唱えた「大東亜共栄圏の確立」「アジアの植民地からの解放」に、「日本人」として貢献したいという思いがあったという。

1945年(昭和20)8月の終戦時には、宮原はインドネシアにいた。

母国の敗戦に一時はショックを受けたが、それ以上にショックだったのは、故郷の台湾が日本から中国(中華民国)に変わってしまったことであった。
仮に台湾へ帰っても、日本軍人として戦場から帰ってきた自分は「漢奸」として処刑になってしまう。実際、彼はミャンマーで「新しい祖国」に銃を向けている。

故郷に帰るに帰れない…かといって台湾生まれ台湾育ちの自分に「母国」での居場所はない。

今後の境遇をどうするのか。そんな中、あることが耳に入った。

インドネシア独立のために、元日本兵たちがインドネシア軍と合流して一緒に戦うというのである。

宮原はそれに参入することを決意した。徒手のまま故郷に帰っても何もない、それならインドネシアのために、まだ見ぬ大東亜共栄圏のためにその生命を捧げようではないかと。

インドネシアを再植民地化しようと、オランダ軍は再びインドネシアの地に乗り込んできた。

しかし、インドネシア独立軍は抵抗し、オランダ軍と数年間に及ぶ独立戦争となった。
宮永も「日本人」の一人として戦いに参戦した。彼の周りには、志を同じとした約900人の元日本兵たちが、日本への帰国を放棄して銃を取ったという。
そして、数年間の戦いでそのほとんどが異国の土となった。

1949年(昭和24)12月、4年間にも及んだ独立戦争は終わりを告げ、インドネシアは独立を達成した。

独立後の宮原

インドネシア独立を見届けた李は、日本人宮原永治としてインドネシアに留まった。故郷の台湾に帰る気はなかったのである。

その後、現地女性と結婚。三人の子供にも恵まれ、1961年(昭和36)にインドネシア国籍を取得した。李柏青から宮原永治、そしてインドネシア人Umar Hartono(ウマル・ハルトノ)となったのである。

https://news.tvbs.com.tw/world/755764 より

インドネシア人として、2005年にはインドネシア建国の英雄の一人として表彰されたこともあった。

しかし、日本人としての矜持は捨てていなかった。

土木事業である程度の成功を収めた彼は、同じくインドネシアのために戦い、血を流し、そして独立後もインドネシア人として生きることを選んだ日本人たちのコミュニティに参加し、彼らの子供たちに「大和魂」を教えていたという。

宮原のインドネシアでの活動は、日本の耳にも入った。

https://blogkhc.blogspot.com/2011/07/blog-post.html より

2007年、インドネシアを訪れた安倍晋三総理(当時)がインドネシア残留日本人との懇談会を開いた際、宮原もその一人として招待された。その時のツーショット写真が残っている。

駐インドネシア日本大使館HPより(画像をクリックするとリンク先へ飛びます)

そして2009年、日本政府は宮原に旭日単光章を授与。日本とインドネシアとの長年の友好活動に報いた。

そして2013年10月16日、宮原は91年の波乱に満ちた人生に幕を閉じた。

故郷はいずこへ…台湾に帰った日

宮原は戦後、一度だけ故郷の台湾へ帰ったことがある。

1974年、彼は日本訪問へのトランジット先として台湾を訪れ、故郷の家族のもとに帰った。
本来は、数十年ぶりの家族との涙の再会になるところであった。

が、当時の台湾は今の中国のような独裁国家であった。彼のもとには常に秘密警察がつきまとい、日本統治時代にすら存在していた自由が全くないことを、空気で悟ったという。

「我が故郷はなんという恐ろしい所になってしまったのか!」

宮原は逃げるように台湾を離れ、二度と足を踏むことはなかった。

それからは、「日本人 宮原永治」として日本とインドネシアのために粉骨砕身することになったのだが、そのときに「台湾人 李柏青」と永遠の別れを告げたのかもしれない。

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