
台北の郊外にある烏來。天然温泉と、落差の大きい滝で有名な、台北に一番近い景勝地の一つである。台北駅からバス一本、もしくはMRTとタクシー・バスで4~50分、日帰りでも十分可能な観光地のため、週末には各地からの人でごった返す。
人口は6,212人(2016年のデータ)、うち原住民のタイヤル族がその半分近くを占めている1
烏来は「地方制度法」という法律によって原住民の自治が大幅に認められ、新北市に属しながら独自の行政権を有していることは、日本ではあまり知られていない。お役所の「烏來區公所」は新北市の出張所ではなく、彼ら独自の行政機関である。
タイヤル族は元々、南部の南投あたりを根拠としていたのだが、北部の烏来にいつ、なぜ、どのようにやってきたかは、まだ明確な答えが出ていない。
「烏来」は「ウーライ」と読む。タイヤル族の言葉で「温泉」という意味で、細かく書くと“Kiluh-Ulay”(水が熱い(から)気をつけろ)の後半が町の名前になっている。彼らによって現在も観光の目玉になっている温泉が発見され、タイヤル族がここに定住したのは「ウーライ」があったからだろうと、私は推測している。
1895年、台湾史の大きな転換点である日本による統治が始まった。
台北からも近い温泉の地を、名実ともに世界一の温泉大好き族の日本人が見逃すわけがない。日本統治時代の50年の間に、烏来は「タイヤル族が住む秘境」から「温泉郷」へと変化したと思われる。

1935年の台湾総督府発行の観光ガイド、『台湾鉄道旅行案内』には烏来までの交通路が書かれている。戦前は萬華から新店まで台北鉄道という私鉄が走っており、そこからバスや川を上ってというルートであった。
1935年(昭和10)の内地からの旅行者向け小冊子には、このように書かれている。
烏来
台北付近で一番近い(観光)処で、蕃地を見学するには温泉もある烏来が良い。(中略)付近には「ラハウ」「リモカン」「阿玉」などの蕃社があり、蕃情を充分観察することが出来る。『台湾の旅 始政四十周年記念台湾博覧会』
1930年代後半には、烏来はすっかり温泉郷としての観光地になっていたことが、当時の文献からもわかる。
台湾には日本語から変化した「あさぶる」という言葉が残っている。
日本時代、内地からやって来た清潔好きで温泉好きの内地人は、朝から晩までお風呂三昧。特に、朝から風呂に入る「朝風呂」は当時の台湾人にとってかなりのカルチャーショックだった。
当時の台湾人の内地人に対する文化的違和感が、「あさぶる」という言葉になって現代に残っているのが興味深い。”阿薩布魯”という立派な(?)漢字まで存在している。
「あさぶる」については別記事で詳しく書いているので、巻末にリンクを貼っておく。
このように台湾には数々の日本語が生活の中に残っているのだが、中には

これって元は日本語だったの!?
と台湾人の方が驚くほど、意識していないものも。
タイヤル族の言葉の中にも、日本語が残っている。彼らは盃に注がれた酒を2人で飲む習慣があり、それを「アイノミ」と日本語で表現するという。
おそらく「合い飲み」(ってそんな日本語はないけれど)が語源なのかもしれない。
昔は相当暴れていたこともあるが…
ここに1枚の絵葉書がある。
昔は相当暴れた事もあるがMichael-Lewis-Postcards-Collection-1024x663.jpg)
いつ頃のものかは不明ながら、日本統治時代に発行された絵葉書である。おそらく、写真に着色したものだろう。バナナかパパイヤか、南国の果実の樹が生え、南国情緒が見る者の興味をそそる絵である。外地とは言え、「国内」にこんなところがあるのかと。
この絵葉書で面白いのは、右上に書かれている解説。

「昔は相当暴れていた事もあるが」
タイヤル族はかつて出草(首狩り)の習慣があった。戦闘民族という書き方は語弊があるけれども、武勇を重んじた原住民。日本統治時代初期も、「新入り」に対して勇敢に抵抗したものと思わる。が、時間と理解が深まり「従順」になったという|経緯《いきさつ》である。
おそらく死者が出て多くの血が流れただろう、「相当暴れた」彼らとの戦いだが、その文字はいつしかユーモラスに思えるほど、この1枚の絵葉書に見える歴史の1ページである。