1920年(大正9)の台湾。この年、台湾史に残る壮大なプロジェクトが開工された。
嘉南大圳である。

嘉南大圳とは、台湾南部の雲林から台南にかけての嘉南平原を流れる農水施設であり、平原を縦横している水路の長さは総計約16,000キロにも及ぶ。
上の地図を見ても、赤線で示された水路が毛細血管のように平原を張り巡らせていることがわかる。これを万里の長城と比べる文章を散見するが、長城は2,700キロであり、嘉南大圳に遠く及ばない。
それ以前に、何故モノも数字も全く違う万里の長城と比べたがるのが不可思議である。

日本でもすっかり有名になってしまったが、嘉南大圳とダム(烏山頭ダム)の建設を提言したのは、八田与一という金沢出身の総督府技師であった。
今では緑や黄金色の絨毯が拡がる嘉南平原を見ると信じられないだろうが、八田が1918年(大正7)にここを訪れた時は、土地は肥沃なものの日照りや豪雨に悩まされ、土地は荒れていた。
農民も、農業用どころか自分の飲み水ですら何キロもの先にある水源まで汲みに行かないといけない有様であった。
その姿は、日本でも話題になった映画『KANO』にも、ほんの2~3秒間だけだが描写されている。
土地は肥沃なだけに、ここにはものすごい可能性がある。ここに水路を引けば農民も、そして台湾も潤う。最後は日本が潤う。Win-Winじゃないか!
八田はそう感じたに違いない。
八田の青写真は膨大な予算を必要とするため、何度も却下された。しかし、その必要性を説いた末に当時の総督明石元二郎、民政長官の下村宏が国に予算を提出、いぶかしむ内閣や帝国議会を説き伏せ無事了承された。
八田与一のことは、また追ってまとめて書きたいと思う。
嘉南大圳は着工から10年後の1930年(昭和5)に完成する。慢性的な水不足に悩まされてきたこの地域では、これにより農作物が安定して獲れるようになり、農民の生活も安定し始めた。『台湾総督府統計書』を見ても、1932年(昭和7)以降から嘉義・台南周辺の農作物収穫量が爆発的に増えるのが、数字で確認できる。

上の写真は現代技術でカラー化した、1923年(大正12)の嘉南大圳の一部の写真である。写真には「盬(塩)水渓」と書かれている。

上の平面図の盬水渓の部分をアップしたもので、流れている部分は台南市街の北の地区にあたる。が、「排水路」だけでもいくつか走っており、写真がどこかは他に資料がなく残念ながら特定できなかった。
上述のとおり、嘉南大圳の完成は1930年(昭和5)である。映画『KANO』でも完成でダムの水が開放され、水路に水が満ちてゆくシーンがある。しかし嘉義農林の甲子園初出場は翌年の1931年(昭和6)であり、時代が合わない。映画のシーン自体はフィクションである。
しかしながら、それでも嘉南大圳のシーンを入れたいという製作側の思いなのだろう。それほど嘉南大圳は台湾農業の象徴として台湾人の記憶に刻まれた、台湾史上のビッグイベントなのである。

映画では、八田が運搬帆船に乗って嘉農野球部員に声をかけ激励するシーンがるが、それと上の写真、なんとなく情景が似ている。もしかしてこの写真を参考にしたのかもしれない。十分にあり得る話である。
八田與一も嘉南大圳も、台湾を知る者の間ではすっかり有名になった。
が、嘉南大圳とは何か、現物を見た人は案外少ないかもしれない。なぜなら、郊外へ行かないと見ることができないから。

これが嘉南大圳である。運河が嘉南平原の隅々まで血管のように巡り、台湾の穀倉地帯として現在も台湾農業を支えている。

橋の上から嘉南大圳を覗いてみると、水が案外きれいだった。冬の乾期のせいか水は少なかったが、雨期の多水期になるとここも満々とした水をたたえるに違いない。
その時は、台湾のあまりの暑さもあいまって、日本人なら服を脱いで飛び込みたい気分になるに違いない。
以上、聚珍臺灣さんの以下の記事の翻訳を元にし、台湾史.jpの見解を加えた。
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