日本統治時代の高雄遊郭
日本統治時代の台湾は、内地がそうであったように公娼、つまり公に売春が許されていました。しかし、「遊郭」という一定の区域のみであり、そこ以外での行為は厳しく禁じられていたのは書くまでもありません。
…というのも、実情を見ると建前なんですけど、それはまた別の話。
無論、高雄にも遊郭が存在していました。
当初は、日本統治時代前からの古街、旗津に置かれていた遊郭は、手狭になったのと遊郭を置ける新地が開拓されたため、塩埕地区に移転しました。
「高雄銀座」と呼ばれた盛り場だった塩埕には人の流れが止まらなかった不夜城だったが、遊郭はそんな銀座にあった。
高雄遊郭の説明はほどほどにして、現在の遊郭跡はどうなっているのか、見てみましょう。
(高雄遊郭の細かい歴史ついては、下のリンクをご覧下さい)

高雄遊郭はどこにあったのか
日本の遊郭跡は、たとえ遊郭がなくなっても飲み屋街や風俗街として命を長らえている場所も多い。血は争えないというやつですな。
実は台北もそのうちの一つだったりします。
台北にあった旧遊郭は戦後も売春街として栄え、1990年代初頭に陳水扁市長(当時)によって禁止されるまで続いていたのですが…

実は観光客向け夜市として日本人にも馴染みが深い饒河街観光夜市。
ここ、実は元遊郭のエリアだったのです。今でも夜市の周辺、「滋養強壮」系統の漢方薬屋があるのはその残滓。
では、高雄の遊郭はどこにあったのか。
Xで台北の遊郭の話をした時、台湾人フォロワーさんいわく、

高雄のは愛河沿いにありました!

ええ、ここあたりでしょ?


そうです💦
やはり高雄も血は争えなかった模様(笑
しかし、精査してみると筆者の推測とは異なる結果が…

台湾の歴史データベースに残っていた航空写真による、上から見た高雄遊郭です。
見る人が見たら、あー!と声を出してしまいそうな、航空写真からでもわかる青楼の数々。

それに文明の利器、現代の地図を透過してみると…おや?遊郭は現在の小学校・中学校になっています。私の目測はちょっと外れてた模様。

遊郭の青楼は学校に。80年以上前、ここに男と女の嬌声が交わり合った特殊区域だったとは全く思えません。

遊郭はその後どうなったのか?それを知るキーワード「高雄大空襲」
お次は、学校では絶対習わない「日本史外伝」、台湾の空襲の話。