台湾南部、嘉南平原の片隅に、「鹽水(塩水)」という小さな町がある。
現在は台湾島のけっこう内陸に入り込み、町名の「塩」も「港」もないただの地方の町なのだが、日本とは非常に縁がある町でもある。
日本統治時代の1904年(明治37)、この地に製糖会社が設立された。
塩水港製糖、そのままの名前で現存している日本の製糖会社である。
この名前に馴染みがなければ、
「パールエース印の砂糖」はスーパーなどで見たことがあるだろう。この会社のことである。
また、ここは台湾が世界に誇る「世界一危険な祭り」の地でもある。
「鹽水蜂炮」と呼ばれる、ロケット花火や爆竹の空中戦が夜を徹して行われる台湾一の奇祭が、旧暦1月14,15日に行われる。
昔懐かし「進め電波少年!」だった記憶があるが(30年近く前のため記憶が曖昧)、日本のお笑いタレントが消防士が火事の現場で着る防火服を着て鹽水蜂炮に参加した。が、完全防備をしても、ロケット花火が体中を直撃して全身に火傷をしたという話がある。
そんな危険な香りがただよう台湾の町にも、日本時代の神社が残っている。
塩水神社とは
鹽水の中心部にある「台南市立鹽水区鹽水国民小学」の中に、それはある。
この神社は、台湾神社遺址巡りのバイブル「台湾旧神社故地への旅案内」にも掲載されていないレアな神社である。よって、日本統治時代を巡る旅人も見逃すことが多いのではなかろうか。
前述のとおり、神社は小学校の中にあり、基本的に昼間であれば校門は開いている。
門番がいれば一言声をかけて入るのがベストだが、筆者来訪時は誰もおらず、地元の家族連れがなんの躊躇もなく校内へ進んでいた。
神社の境内…と言えるかどうかは定かではないが、敷石の上を進んでいくと、奥に見たことがある鳥居が見えてくる。
小学校の中にあるせいか、教育の一環なのか神社への拝礼の仕方も中文で書かれている。
ここではいちいち翻訳はしない。
鳥居の奥にある本殿は、小さな祠という感じである。神様はおらず、祠の中は空っぽである。
境内には歴史遺跡としての説明プレートもあった。
塩水神社は紀元二千六百年の年だった1940年(昭和15)に、当時は塩水公学校だったここに建てられ、当時の台湾で行われていた「皇民化教育」の一環として建立されたとのこと。
そして日本統治が終わった戦後は、孔子廟として流用されていた。
南部の東港神社もそうだったが、同じ教育に関係することもあってか、戦後は孔子廟に変わったところも多い。
国民党の独裁教育により日本統治時代の歴史は「なかったこと」にされ、ここも鳥居などが撤去され神社であったことすら長年の風月の流れで忘れかけられていた。
が、2008年に国の歴史遺址を残そうという方針により、神社として「再建」されたという経緯である。
「台湾神社公式ガイドブック」にも掲載されていない、小さな小さな神社であったが、地元の人たちがここに確かに神社があったことを、再建という形で示してくれている。