高雄市の北部に位置する左営。日本人旅行者にとっては、台湾新幹線の南の終点として名前が知られているところだが、高雄より歴史が古い台湾の旧都の一つであり、現在は海軍の本拠地としての軍都でもある。
軍都としての左営は日本統治時代に築かれ、大日本帝国海軍は1941年(昭和16)、ここに「高雄警備府」を置いた。

中曽根康弘元総理大臣も、若き海軍士官時代にここで勤務していたことは、知る人ぞ知る話である。

当時の海軍士官宿舎が「眷村」として残されており、現在は台湾史の活きた資料として保存され、リノベーションが進んでいる。
こちらに関しては、また追って別記事にまとめたい。

また、海軍立の博物館もあり、外国人も遠慮無く無料で観覧が可能である。ネイビー好きにはたまらない。
そんな海軍の町に、日本史として外せない一角がある。
高雄にあった特攻隊基地
左営の旧城内(昔、ここは城壁に囲まれていた)の西門が発掘された「西門遺址公園」がある。
現在は公園となっているこのエリアには、かつて海軍の特攻隊の基地が置かれていた。
その特攻兵器の名は”震洋”。

「震洋」は大東亜戦争(太平洋戦争)末期に日本海軍が開発した特攻兵器の一つで、唯一に水上特攻艇である。

ベニヤ板製のモーターボートの船首に250kgの爆薬を積み、体当たり攻撃により敵艦を撃墜するというものであった。写真のものは一人用だが、のちに二人用も生産された。
昭和19年(1944)7月から生産が始まり、通算で6,197隻が製造されたと言われている1。
素材がベニヤ板というだけで目も当てられないが、作った方は本気であった。正気だったかは知らないが。
その他の情報は、公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会を参照されたい。


終戦後に中華民国軍が基地を接収した際、中には208隻の震洋が残っていたという。


現在は、上述のとおり基地跡一帯が公園となっているが、当時の防空壕が保存されている。
しっかりとしたコンクリート造りとなっており、日本でも当時の防空壕を間近で見る機会は少ない。

その中に、かつて基地内にあったという「震洋神社」があった。

現在は台座のみ別の場所に移動され、保存されている。

写真のとおり、本当に台座のみなのだが、先の戦争でここに特攻隊の基地があり、武運長久を祈ったのだろう、神社も存在していた。
「日本史外伝」としての台湾史の歴史の一つとして、ここに残されている。


この近くには、「果貿社区」という台湾一と言われる巨大団地群があり、台湾通の間ではかなり有名になったのだが、ここから徒歩圏内にあるこの公園にも、是非訪れることを希望する。