台湾大学の台大校史館

スポンサーリンク
台湾大学校史館、旧台北帝国大学(台北帝大)の図書館だった建物 台湾史秘話ヒストリア

台湾の学校の特徴の一つは、古い伝統を誇る学校には「校史館」というものが必ずあること。「校史館」とは、読んで字のごとく学校の歴史を紹介した史料館のこと。

日本の大学にもあるところはありますが、非公開だったり、外部の人間お断りだったり、マニアックな方だけが喜ぶホコリまみれの史料室だったり、一体何のために作っとんねんと愚痴の一つでも言いたくなるところも多い。
しかし、台湾の校史館は基本オープンで、ちょっとした博物館並みのところまである。

校史館があるのは、何も大学だけではない。

台北、いや台湾一の進学率を誇る「建國高級中學」(男子校)は、校舎の写真を見ていただけるとわかるとおり、日本統治時代には「台北一中」という台湾トップの旧制中学(今の高校)だった。

100年以上の伝統を持つ名門高校だが、ここにも校史館がある。と書こうと思ったのだが、筆者が訪問した時は夏休み中で閉館であった。

台大の校史館は、正門からいちばん近い位置にあり、旧理農学部(現生物学科など)1号館の正面に位置している。

台湾大学校史館と日本語学科。台北帝国大学時代は図書館だった所。

正門から椰林大道をまっすぐ行くと、左手に古くも重厚な建物が見えてくる

台湾大学校史館と日本語学科。台北帝国大学時代は図書館だった所。

校史館は、昭和4年(1929)に建てられた「総図書館」で、旧台北帝国大学の建物の中でも古い部類に属する。
5回にわたって増改築が行われており、書庫も入れると規模はかなり大きいもの。

台北帝国大学図書館の蔵書数は、昭和6年(1931)で234,980冊だった。
が、太平洋戦争勃発の昭和16年(1941)には427,436冊とほぼ倍増1。具体的な数は不明だが、昭和19年には全帝国大学第三位の蔵書数を誇ったという記録もある。

現在の台湾大学は台北帝国大学の後継と名乗っているが、何も敷地や建物を受け継いでいるだけではない。
研究内容や、帝大が所蔵していた図書もすべて受け継いでおり、現在の台大図書館にも手付かずの帝大時代の蔵書が眠っている。現在でも整理やデジタル化が進められており、時折掘り出し物の新発見があるとのこと。

その中に、「田中文庫」という貴重な書物があるの。ここでも隠れた日本人の名前が出てくる。

田中長三郎(1885-1976)は農学者で、終戦まで台北帝国大学理農学部の教授を務めた人物だった。その傍ら、1929年から1934年まで図書館長も兼任していた。
田中長三郎は柑橘類の世界的権威として、その筋の研究者の間で有名だった人物。亡くなった時、昭和天皇より銀杯が贈られたというから、かなり偉い人だったことがうかがえる。
しかし、Wikipedia先生の経歴には、台北帝国大学図書館長の経歴がすっぽり抜けている。

その田中が館長時代、父の遺産(現在の価値で7億円)をつぎ込み世界中書物を収集し、台北帝大の図書館に所蔵していた。
が、戦後の引き揚げの際持ち帰りが許されず2、図書館に数十年眠ったままであった。
それが1997年から台湾大学によって整理され、「田中文庫」として大学の蔵書となっている。

国立台湾大学図書館

現在の図書館は、椰林大道の突き当りにあるこの建物で、9年もの期間をかけ1998年にオープンした。

地上5階、地下1階で、台湾一の大学の図書館として独特の威厳と風格を備えている。
現在の校史館は、1998年まで現役の図書館として使われていたのである。

図書館の中はいちおう「関係者以外立ち入り禁止」で入るには学生IDが必要である。
しかし、パスポート持参で窓口で申請すれば見学と資料の閲覧は可能。もし日本統治時代の資料を見たいのであれば、5階のコーナーに台北帝国大学の資料が保管されている。

台湾大学校史館。日本語文学系

校史館の建物の1階は文学院(文学部)の日本文学科と大学院、日本研究センター(「中心」とは中国語で「センター」という意味)となっており、ポスターにも日本語が書かれていたりと、日本人にはなんだか親近感が湧くところである。

2階は今回のメイン校史館と、翻訳課程の大学院、対外国人中国語教授課程が入っている。

台湾大学校史館と日本語学科の内部。台北帝国大学時代は図書館だった所。

正面にある階段を上り、校史館がある2階へと向かってみよう。

1階と2階にある階段沿いの壁には、台北帝大から戦後の台湾大学への歴史が、写真で展示されている。

校史館2階

この旧図書館の校舎だけでも、十分大学の歴史の生き証人なのだが、2階が実質的な校史館となっている。

台北帝国大学図書館。現在は台湾大学校史館

こんな台北帝国大学時代の写真も展示している。

台北帝大の校章が入った灰皿。台湾大学校史館の展示物

台北帝大の校章が入った灰皿。帝大の校章が入ったなんとも厳かな灰皿であるが、おそらく大学の応接室に備え付けられたものだろう。
今はすっかり喫煙者も現象したが、昔は「男子のたしなみ」として半分mustな習慣だった。筆者が社会人を始めた平成10年頃までそんな習慣が残っていたので(かく言う筆者も元喫煙者)、昭和の昔は当たり前だったのである。

台北帝大転科届。台湾大学校史館の展示物

戦前にも「入った学部間違えた!」というのがあったのだろう、

すみません、専攻変えます!

という転科届も残っている。「家庭及一身上ノ都合」とはそういうこと、私の予備校時代の友達も、同じ理由で転科したし。
昭和初期でも候文なのに驚きだが、この東嘉生氏、台湾大学の調査で身元が判明している。

東は台湾生まれの内地人(戸籍は大分県)で、転科後は台湾経済史を専攻、卒業後も大学に残り研究者としての道を歩んだ。1943年に乗船していた船が米軍の攻撃により撃沈、彼もその時に殉職した。
台湾経済史のパイオニアながら観点が少しマルクス経済学がかっていたので、戦後国民党独裁時にはタブー視され(触れるだけで政治犯として島流し)、評価され始めたのは台湾民主化寸前の1980年代後半以降…とWikipediaに説明にあった。

台北帝大の女子大生。帝国大学にも女学生がいた

台北帝大前編でもチラッと述べた台北帝大の女子大生の写真も、ここに展示されている。
拡大すると花束を持っているので、おそらく卒業時または修了時の記念写真だろうか。女子大生はいたにはいたけれども、当時はやはりパンダ並みの珍獣であった。

台湾大学他、帝国大学のJDについては、台北帝大の歴史で少し触れている。

校史館には、戦後の台湾大学学長の写真も飾られている。

台湾大学の歴史上、帝大時代の4人を入れると15人の学長がいる(代理を除く)。

日本の敗戦後、台北帝国大学が接収された後の学長に、羅宗洛(らそうらく)という人物がいた。初代台湾大学の実質的な学長である。

彼は日本の旧制第二高等学校(今の東北大学)を卒業後、北海道帝国大学で学んだ植物学者であった。

学者の良心か、それとも帝大卒の誇りか、中華民国による接収後は出来るだけ台北帝大の水準を保とうとした。そのため、旧台北帝大の日本人教授にも残留を願ったりしたのだが、戦後に「君臨」した行政長官の陳儀という人物の政治的な方針と対立、追放されてしまう。

その後、1951年までに学長が6人も7人も変わる混乱の時期になったことから、学問の自治を守るアカデミック側と政治が鋭く対立していたのだと推察できる。

志半ばで追放された羅宗洛学長はその後、上海で研究生活を送り、中華人民共和国となった大陸へ残ることとなる。
文化大革命で6年間獄につながれたこともあったが、1978年に亡くなるまで一介の学者としての人生を全うしたという。

この校史館売店で、せっかくだと記念にあるものを購入した。

臺灣大學。台湾大学校史館の中の売店で販売のマグカップ
臺大出版中心書店サイトより

『臺北帝國大學圖書館マグカップ』。

売店で売られていたマグカップには、『臺灣大學』バージョンもあった。
さほど高くもないので、いっそのこと両方買ってやろうかとも思ったのだが、家の需要と供給上、二つも要らんということが、脳内会議で満場一致(1票)で決まってしまった。

京大の湯飲み

我が家には、「京大湯呑み」もある。持ち主の過酷な使用環境にも耐えてくれていたが、5年以上経ちそろそろ汚れが目立ち、買い替えが近くなってきたのが惜しい。

本当は台北帝大湯呑みなんかがあれば、金に糸目をつけず即決だったのだが、そこは台湾なので致し方ない。台湾の大学で日本式湯呑みが売ってたら、ある意味恐るべしである。

なお、『臺北帝國大學圖書館マグカップ』は台湾大学図書館オンラインショップで購入も可能である。

created by Rinker
Taipei Taiwan T-Shirts & Sweatshirts
  1. 論文 陳喩『日本統治下の台北帝国大学について(上)』より。
  2. 引き揚げ日本人には、スーツケース1個分の荷物と現金1000円しか持ち出すことを許されず、残りは泣く泣く手放すしかなかった。百科事典や蓄音機・レコードなどを引き揚げる日本人から譲ってもらった台湾人も多く、それが戦後台湾の知と教養の始まりだったと言う人もいる。
タイトルとURLをコピーしました