畳と台湾

台灣に残る日本の畳文化 台湾史
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台湾が日本の統治を受けた期間(1895-1945)は50年。50年という期間は、長くもあり短くもあるのだが、ちょうど中間に位置するほどの時間経過でもあり、被統治側に統治側の文化が浸透するには時間的に充分だったのかもしれない。

日本が台湾に遺したもの…それは言葉や習慣などの無形のものから、はっきりと目に見え触れることのできる「モノ」まで様々である。そして、それが現地に浸透し、「台湾文化」になったものも少なくない。

その典型の一つが、今回の本題である「畳」である。

 

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台湾と畳

台湾に畳が残っていると聞くと、台湾にそれほど詳しくない人は大きく驚くであろう。日本にしかない文化的素材が外国にもある、というだけで目を開かされる人もいるに違いない。

畳は、日本統治時代に内地からやってきた人(内地人)が台湾に持ち込んだ「モノ」としての文化である。当時は民家だけでなく、神社仏閣、武道場から料亭など、至る所で使われていた。

論文『Formation and historical development of Tatami in Taiwan』によると、台湾の畳産業は大きく分けて4つの時期に分けられるという。

1.導入期(1895-1925):日本人の畳職人が来台、台湾人の弟子を持ち畳製作の指導を行った。
2.職人発展期(1926-1945):台湾人畳職人第一世代のスキルが上がり、独り立ちしていった。
3.市場隆盛期(1945-1980):日本統治時代の終わりと共に内地人が引き揚げ、台湾人職人の独占時代
4.衰退期(1980-):西洋風の生活様式が浸透し、畳の需要の減少と共に産業自体も衰退した

もし、畳文化が台湾人の間で受け入れられなければ、畳文化は日本統治時代の終わりとともになくなっていただろう。

が、畳は残った。

日本人の師匠を持つ台湾人の職人たちが、台湾の畳文化を継承すべく努力し、需要こそ減ったものの、現在でも畳を製作しているのである。

それだけではない、言葉にも残っている。

台湾では、畳を「榻榻米」と書く。発音は「たたみ」、日本語がそのまま残っているのである。また、「畳席」と書いても良いらしい。

 

試しに、Google mapで「榻榻米」を検索してみた。

台湾畳マップ

1980年代には台南だけでも11軒の畳店があったというが、Google mapで検出された店をざっくり数えたところで約20軒だった。

畳への新しい光

日本でも生活の西洋化などによりフローリングが普及し、畳の需要が1980年代の3分の1にまで落ち込んでいるそうだが、台湾でも例外ではなく、職人の高齢化や後継者不足などにより需要は確実に低下しているという。

しかし、寂しいニュースばかりではない。

□慈濟傳播人文志業基金會より

日本人から学んだたたき上げの畳職人である祖父の跡を継ぎ、孫が祖父に弟子入りし技を伝授したといコラムである。
最初は日本風の「技は目で盗め」という教えに戸惑いつつも、今では一人前の職人として独り立ちしているという。

それだけではなく、若者らしい発想でSNSなどを活用しビジネスを広げ、若者を中心とした日本建築の保存、いわゆる「懐日」の影響もあり、畳を「台湾文化」として保存し進化させていこうという動きもあるという。

また、日本から畳製造機を輸入し新たな畳への挑戦を行っている工場もあるという。

台湾の畳文化、祖父母の世代が残しつつあるものを、若者たちが都合と努力している姿が台湾に見えている。日本人の目から見ると、日本文化の継承を「親日だから」と良くも悪くも単純に捉えがちだが、台湾人にとっては畳は自分たちの文化の一つであり、それを保存するのは彼らのアイデンティティの問題でもある。それを「親日」だからと結論づけると、台湾に対する重要な観点を見落としてしまう。注意が必要である。

台湾の畳がどう保存され進化するか、それは既に日本人の手から離れ、台湾人自身によって道が切り開かれつつある。

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