李登輝と犬養孝

李登輝と犬養孝 台湾史

台湾を無血で民主化へと導き、「台湾民主化の父」として現在でも政治記者からは「總統(ゾントン。大統領という意味)」と呼ばれ尊敬を集めている李登輝氏。現在97歳で体調も危ぶまれていますが、存在感は未だ健在です。

李登輝氏が、台湾にあった旧制高校である台北高校に入学したのは、彼の経歴を知っている人にはもはや説明不要です。旧制高校は、ただでさえ優秀でないと入学が難しい高等教育へのメインゲートですが、日本統治下の台湾では台湾人入学者は制限されていたという差別が存在していました。

台湾人も、それを知っていて針の穴を通すような門をくぐり抜け、入学した者は胸を張るような自尊心を得るには充分な箔でした。我々台湾人だってやれば出来るのだと。

李登輝氏自身、著書でこのように述べています。

「日本人は台湾人のことを少々見くびるところがあった。私自身、そういう場面に何度も遭遇した。高校生の頃母を台北の百貨店に案内した時は、わざと台高の制服を着て『台湾人の俺だってやればこれくらいできるんだ!』という矜持を表したこともあった」
(『新・台湾の主張』)

若く大志ある学生、李登輝青年の鼻高々な自己主張がこの言葉からうかがえます。
外の世界では大小様々な差別があったことは確かですが、自由と自主あふれる高校に入るとそんな空気はなかったようで、

しかし、台高の中では差別など一切なかった。級友たちも表立って私たちにおかしなことを言う人は皆無だった」
(『新・台湾の主張』)

と続きに書いています。
李登輝氏は高校生になり、旧制高校の基本である「自由・自主・自治」の傘の下、大いに学生生活を楽しみました。といっても、遊んでいたわけではありません。

台北高校の一クラスの定員は40人。そのうち台湾人の生徒は3人か4人だったと記憶している。在学中、とくに差別を感じたことはない。むしろ先生からはかわいがられたほうだと思うし、級友たちも表立って私におかしなことをいう者はいなかった。自由な校風の下、私は級友たちとの議論を楽しみ、大いに読書に励んだ。
『【特別寄稿】李登輝より日本人へ「日台の絆は永遠に』

李登輝氏は、高校時代に読んだ本をメモっていたそうで、岩波文庫だけでも7~800冊の記録があるとか。本人も「ありとあらゆる本を読んだ」と回想しています。
今の大学生は本を読まないと言いますが、読書から得られる知識は自分の知の土台となるもの。土台をおろそかにしては知が身につくことはありません。それどころか、自分は何も知らないんだという「無知の知」すら認識することができません。そうなると知に対して謙虚でなくなり、己の白痴化へまっしぐらと。
大学を卒業したのに、なんでそんな一般教養知らんのだ?あなたホントに大学卒業した?と基礎学力すら疑ってしまう人によく出会いますが、土台がなってないからこその現象でしょう。

閑話休題。
李学生にとって解釈が超難解だったのが、カーライルの『衣裳哲学』でした。私も李登輝氏の著書で知り日本語訳を読んでみたことがあります。が、さっぱりわけがわからず。李登輝青年も、頭に冷や汗をかきながら読んだに違いありません。
そんな中、台北の図書館で新渡戸稲造の『衣裳哲学』についての講義録に偶然出会います。これを読んだ李青年は目の前の霧がたちまち晴れるような感動を覚え、新渡戸と同じ農業経済への道へ進もうと決意します。
「台湾で豚肉のことを語らせたら、僕の右に出る人はいないよ(笑」
と豪語した農業経済学者の原点が、旧制高校時代だったのです。

 

李登輝氏が新渡戸から学んだものは、これだけではありません。新渡戸の著書『武士道』も精読し、一度しかない人生を『私』のためではなく『公』のために尽くそうと決意したのもこの頃。

李登輝政権時代、彼が台湾に根付かせようとしたもの、それが『公』でした。日本統治時代にいちおう花開いた『公』は、台湾に進駐した中華民国によって踏み潰されました。中華民国は中国伝統の『私』でした。それも数千年の蓄積による化け物のような『私』でした。それによって台湾を支配し、台湾人も『私』によって抵抗するしかなかった。戦後台湾史を一言で説明するとそうなりますが、台湾に根付いた『公』はまだ死んでいない、それを(再び)台湾に根付かせる。それが李登輝政権のビジョンでした。

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李登輝とある学者との出会い

ここに、1枚の写真があります。

台北高校生時の李登輝氏と犬養孝氏
(『白線帽の青春 西日本編』より)
李登輝氏の台北高校時代の写真です。赤矢印が李氏ですが、黄色矢印の背広を着た人は、当時台北高校教授だった犬養孝です。

犬養孝

犬養孝(1907-1998)は日本文学研究者で、万葉集研究に生涯を捧げた「ミスター万葉集」的存在です。万葉集が好きな人や、大学の国文専攻で彼の名を知らない人は、たぶんいないと思います。それくらい有名な万葉集界のスーパースターです。NHKの教養講座では、歌を詠む際独特の抑揚をつけ、「犬養節」と呼ばれていました。
なお、犬養という珍しい名字ですが、首相になった犬養毅とは何の関係もありません。

彼は対米戦争の始まった1942年(昭和17)に台北高等学校に赴任したとWikipediaにあります。李登輝氏はその翌年に台北高校を卒業しており、写真は1942年、または43年の初期だと推定できます。

犬養孝台湾在住経験があったのにも驚きですが、李登輝さんと一緒に写っている写真が残っていたのにはもっと驚きです。

李登輝さんは犬養の授業を受けたことがあるらしく、具体的には述べていないものの、どこかで犬養先生の授業を受け…との記述があった記憶があるので、それなりの薫陶は受けたものと思われます。

ところで、李登輝夫人の曽文恵さんが女学校時代に学んだ和歌を現在でも嗜み、今でも考える時は五・七・五と日本人と全く同じ指折りをするそうですが、夫人にとっては犬養はおそらく神。そうではなくてもスーパースターです。

もしかして若い頃の李登輝さん、

「先生の授業受けたの!?なんで先生のサインもらってこなかったのよ!(怒」

と曽文恵夫人に説教されていたかもしれません(笑

 

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