台湾史人物事典 陳翠玉-台湾看護師のパイオニア

陳翠玉 台湾史人物事典

昨日3月8日は、「国際婦人デー」であった。日本ではあまり馴染みがないが、アメリカなどでは3月を女性月間とするなど注目する国や地域もある。

台湾史において、女性は保守的な社会もあいまって優遇されてきたとは言えなかった。日本時代の本島人の就学率は70%を超え、植民地としては異常なほどの数字を残している。が、この内実は、男子の95%以上に対し、女子が約45%と半分にも満たなかったという事実があった(つまり、平均で70%)。女なんかが学を持つとロクな女にならない…今では信じられないかもしれないが、1920年~1930年の社会はこのような状態であった。

そんな中、向学心に燃えた一人の台湾女性がいた。彼女の名は陳翠玉
今回は、日本語で書かれた資料がほとんど存在しないため日本では全く知られていない、ある一人の台湾女性の人生を振り返ってみることにする。

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出生~日本統治時代

陳翠玉

陳翠玉は1917年2月9日、台湾中部の彰化に生まれた。両親は敬虔なキリスト教徒で、彼女もキリスト教の洗礼を受け育った。

地元の彰化高等女学校を卒業が、その時点では特に進路は決まっておらず、彼女自身にもこれといった夢もなかった。が、海の向こうの福建省のアモイに住む親戚の元を訪ねた際、大陸のあまりの不衛生さと医療の未発展ぶりに、看護の道を志したという。

その後、教会の牧師の勧めで陳は20歳にして単身、内地の聖路加女子看護学校へと進んだ。この学校では初めての台湾女性であった。当時は台湾にも看護学校はあったのだが、何故内地の学校を選んだのか。おそらく、宗派は違うとは言え同じキリスト教系の学校の方が良いと考えたのかもしれない。
1941年に学校を卒業するが、日本語はもちろん英語にも精通し成績も優秀な彼女に対し、学校側は内地に残るよう説得した。が、彼女には台湾へ帰る強い意志があり、結局台湾へ帰ることになった。

そして台湾に帰った後は台北の病院に勤務し、戦争中ながらも目の前の看護の仕事に集中し、昭和20年の終戦を迎えた。

 

陳翠玉と二二八事件

日本統治が終わり、中華民国軍が進駐してくるとすぐ、大陸から持ち込まれたかコレラなどの疫病が流行り始めた。日本時代末期にはすでに台湾では撲滅されたとされたものである。

陳は看護・公衆衛生の専門家として、救護隊を編制したり公衆衛生の啓蒙を促したり、台湾中を駆け回ったという。

1947年2月の二二八事件の黒い影は、政治には何の縁もない陳の身にも大きく降りかかることとなった。

事件の初期はいわゆる外省人が襲撃され怪我を負い、病院に担ぎ込まれていた。陳が勤務する病院にも一人の外省人の幹部が担ぎ込まれ、彼女は一人の看護師として看護を施した。

が、恩を仇で返すとはこのことか、その幹部は彼女を政府のブラックリストに入れたのである。この当時のブラックリストは、デスノート以外の何者でもない。死刑一択の危機に迫られた彼女は、つてを頼ってカナダへと逃げる。彼女も二二八事件の被害者だったのである。

 

海外脱出~台湾帰還へ

陳翠玉
(画像:「護理界的英雌─陳翠玉」より)

陳はカナダのトロント大学で看護教育の学士号を取得したが、二二八事件の混乱も鎮まった頃に台湾へ帰還することができた。

台湾へ戻った陳は、台湾大学医学部附属病院に勤務しながら、台湾の看護学の向上や看護師養成の教育制度などの整理に従事した。現在の台湾の看護学の基礎を築いたといっても良い。

その功績が認められ、1950年に台湾大学医学部付属看護学校の校長に抜擢される。この時33歳。トップの地位は外省人で占められ台湾人に幹部ポストはほとんど与えられなかった中、この抜擢は異例中の異例であった。彼女の能力がそれほどずば抜けていたからであろう。

しかし、好事魔多し。学校に国民党の息のかかった人員が入り込み、すべては「大陸反攻」のための「政治」が優先とされる教育となった。陳の力ではどうしようもない力で、理念とかけ離れていく学校の姿に幻滅しつつあった。

そんな時、身に覚えのない罪状が襲いかかる。文書偽造の罪である。彼女は無罪を訴えるがかなわず、逃げるように台湾を離れた。

再び海外へ~政治活動への目覚め

陳翠玉
「紀念為返鄉而死的陳翠玉女士」より)
傷心の彼女は海外へ居を移した。WHOの顧問として主に中南米へ赴き、看護や公衆衛生の啓蒙に努めた。

そんな時、彼女はアメリカの統治下のプエルトリコの独立運動を目の当たりにする。政治に翻弄されつつも政治活動とは無縁の彼女であったが、プエルトリコと台湾の実情を照らし合わせ、台湾の独立を志すようになる。

1980年、WHOを退職した彼女はアメリカを中心に台湾の民主化活動を開始、1986年に台湾民主化女性運動(Women’s Movement for Democracy in Taiwan)を立ち上げた。

しかし、これで陳は当時独裁政権下にあった中華民国政府より危険人物とみなされ、台湾へ帰ることができなくなった。

1988年、ついに彼女は台湾へ帰ることを決意したが、ブラックリスト入りの中どうやって帰るのであろうか。実は、紆余曲折を経てアメリカのパスポートを取得、「アメリカ人」として帰国を果たしたのである。そして、長い間踏むことができなかった故郷の土を踏みしめることに成功した。

が、心臓に持病があった陳は、それまでの心労がたたり同年7月末に倒れ、1ヶ月後の8月20日に帰らぬ人となった。享年71歳。

陳翠玉は一人の看護師、一人の女性に過ぎない。しかし、彼女もまた台湾の政治史の荒波の中で溺れながらも、必死に生きた一人であった。しかし、彼女が蒔いた種は、今も台湾の看護界の中で芽を出しているに違いない。

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=参考サイト=
婦女節,回顧臺灣護理前輩陳翠玉的故事(聚珍臺灣)
Wikipedia-陳翠玉
紀念為返鄉而死的陳翠玉女士(Taiwan People News)
台灣護理界的傳奇人物——為正義而戰的鬥士 永遠的改革家陳翠玉

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